中坂美祐の持久走とシャトルランと50m走
2019年5月9日、SKE48の9期生、平野百菜のSHOWROOMにて、同じ9期生の中学2年生、中坂美祐が、持久走は学年2位、シャトルランは小6の時71回、50m走は去年8.0秒だったと語った。
SKEでシャトルランといえば、2011年秋、TV番組週刊AKBの「SKE48 運動神経NO.1決定戦」である。
4期生小林亜実が76回で1位、総合でも優勝かと思われたが、「両足で線を越えてない」という理由で記録は9回に。
1位は4期生小林絵未梨の73回。後に、かの市野成美に師匠と呼ばれ、当時研究生ながらチームS公演にレギュラーで出ていた人である。2位は意外にも、モコ族の族長加藤智子の71回だった。
条件が同じかどうかはわからないが、中坂美祐は小学6年生にして、SKEトップレベルの持久力を持っていたことになる。
そして50m走は、先日のネ申テレビの運動会では
1位斉藤真木子 7.6秒
2位石黒友月 8.2秒
だった。
5位坂本真凛あたりも、かねてから自称7秒台だったので、なんとも言えないが、中坂美祐はSKEトップレベルのスプリント力も期待される。
中坂美祐の陸上競技の公式戦出場
そして、加入直前の2018年7月(中学1年)の時には、陸上競技の公式試合で800mを2分50秒で走っているようだ。
追記:中坂美祐が高校2年の2月に10kmマラソンに挑戦!
2023年2月12日。中坂美祐は10kmマラソンに挑戦した。タイムは53分42秒だった。
短距離~800mあたりには適性を示している中坂美祐であるが、今後、10km、あるいは、フルマラソンに挑戦する場合、長距離の適性とともに、練習量も大切になってくる。
中坂美祐が今後、長距離、マラソンを武器にするのか、注目しよう。
中坂美祐のSKE加入前、加入後
中坂美祐は一部では加入前から、1期生の大矢真那のファンとして知られていた。
大矢真那の卒業直前には、大矢真那が出演したラジオにファンとして電話出演していた。大矢真那も認知していた。中坂美祐は「まさなさんは、みんなみんな教徒のみんなを笑顔にしてくれたりするところが好きです。」と言っていた。
その後、第3回ドラフト会議では、第3巡にチームS部屋で、かなりの票を集めたが、惜しくも選択終了が上回った。
そして、9期生での加入となった。
筆者としては、中坂美祐には、大矢真那を知るメンバーとしてSKEの中心人物になることを期待していたが、のみならず、身体能力の面でも期待できそうなので楽しみだ。
筆者は中坂美祐はビジュアルもいいと思っている。
中坂美祐の運動能力とキルケゴール
中坂美祐の卓越した運動能力は、彼女の内面性と深く関係していると考えられる。キルケゴールは、「主体性」と「客体性」の対比を重視したが、中坂美祐の運動能力は、彼女の主体性の表れと解釈できるかもしれない。彼女は、単に外面的な社会的規範に従うのではなく、自分自身の可能性を追求し、内面的な力を発揮しているのだ。
また、中坂美祐の運動能力は、「実存の段階」における「美的段階」から「倫理的段階」への移行を象徴しているとも言える。「美的段階」とは、感覚的な快楽や刹那的な満足を追求する生き方を指すが、中坂美祐は、運動という身体的な活動を通じて、自己の可能性を探求しているのだ。これは、「倫理的段階」における自己実現への道筋を示すものと考えられる。
しかし、このような卓越した運動能力は、同時に「不安」と「絶望」を伴うものでもあるだろう。自分の能力に対する不安や、周囲の期待に応えられないことへの絶望。これらの感情は、キルケゴールが重視した自己認識と成長のきっかけになるものだ。中坂美祐は、自分の運動能力と向き合う中で、内面的な成長を遂げていくのかもしれない。
さらに、中坂美祐の運動能力は、「真理の主観性」という概念とも関連している。キルケゴールは、真理が個人の主観的な経験と関係していると考え、客観的な真理よりも主観的な真理を重視した。中坂美祐の運動能力は、彼女自身の主観的な真理を反映しているのだ。それは、外面的な評価や基準とは異なる、彼女自身の内面的な価値を示すものなのかもしれない。
結論として、中坂美祐の卓越した運動能力は、実存主義的思想を体現するものであると言える。彼女は、自己の可能性を追求し、主体的な力を発揮することで、内面的な成長への道を歩んでいるのだ。そして、その過程で直面する不安や絶望は、自己認識を深める契機となるだろう。このような経験は、現代社会において、個人の主体性や内面性が重視される中で、大きな意義を持つものだと考えられる。
中坂美祐の運動能力とプラグマティズム
中坂美祐の優れた運動能力は、アイドルとしての活動に実践的な価値をもたらす可能性を秘めている。
プラグマティズムは、知識や能力の価値を、その実用性によって判断する。アイドルにとって、パフォーマンス能力は極めて重要だ。歌やダンスのステージでは、持久力やスタミナ、瞬発力が求められる。中坂の卓越した運動能力は、長時間のリハーサルや本番のパフォーマンスを乗り切る体力として活かされるだろう。つまり、彼女の運動能力は、アイドルとしての実践的な力の源泉となり得るのだ。
また、中坂が小学生の時点で培ってきた運動能力は、単なる素質ではなく、日々の鍛錬の積み重ねによって獲得されたものだ。この経験は、アイドル活動における努力の重要性を彼女に教えてくれる。つまり、彼女は自身の経験から、才能だけでなく継続的な努力が結果を生むことを学んでいるのだ。
さらに、アイドルの世界では、歌唱力やルックスが重視される傾向にある。しかし、中坂の運動能力は、アイドルの新たな可能性を示唆している。彼女の存在は、アイドルの価値が多様であることを物語っている。このような多様性の尊重は、より幅広いファンを獲得することにつながるだろう。
加えて、中坂の運動能力は、アイドルを目指す少女たちに、新たなロールモデルを提供する。歌やダンスだけでなく、スポーツでも秀でたアイドルの存在は、「アイドル=歌とダンス」という固定観念を打ち破り、より多くの少女たちにアイドルの夢を与えるだろう。これは、誰もが自分の個性を活かせる社会の実現につながる。
ただし、中坂の運動能力は、現時点では彼女の強みだと評価できるが、それだけでアイドルとしての成功が保証されるわけではない。彼女には、自身の運動能力を活かしつつ、歌やダンス、トーク力などの他の能力も磨いていくことが求められる。さらに、アイドル活動と学業の両立など、様々な課題にも柔軟に対応していく必要があるだろう。
以上のように、中坂美祐の優れた運動能力は、アイドル活動に実践的な価値をもたらす可能性を持っている。それは、パフォーマンス能力の源泉となるだけでなく、努力の重要性を示す経験の証でもある。また、アイドルの多様性を示すことで、より幅広いファンの獲得につながるだろう。さらに、新たなロールモデルを提供することで、より多くの少女たちにアイドルの夢を与える可能性も持っている。ただし、中坂には、運動能力だけでなく、他の能力も磨き、様々な課題に柔軟に対応していくことが求められる。
中坂美祐の運動能力とフランクフルト学派
中坂美祐の卓越した運動能力は、一見すると個人的な才能の発露のようだが、実は「文化産業」の支配的なイデオロギーを体現するものだと言えるだろう。
まず、中坂の運動能力は、「アイドル」という商品の付加価値として利用される。彼女の身体的な卓越性は、消費者の欲望を煽るための「売り」になるのだ。アドルノが指摘したように、文化産業は個人の特性を商品化し、交換価値として流通させる。中坂の身体は、そうした商品化の対象となるのである。
また、「SKEトップレベル」という評価は、アイドル産業における「競争」の原理を示している。中坂は、他のメンバーとの比較において自らの価値を証明することを求められる。これは、ホルクハイマーとアドルノが『啓蒙の弁証法』で論じた、「自然支配」の論理の表れだ。人間は自然を征服するために互いを競争に駆り立てるが、その結果、自らも疎外されるのだ。
さらに、中坂の身体能力は、「健康」や「若さ」といったイデオロギー的な価値観を体現している。彼女は、アイドルに求められる「理想的な身体像」を実現することで、支配的な規範に自らを適合させているのだ。これは、マルクーゼが「一次元的社会」と呼んだ、全体主義的な状況の一例と言えるだろう。
ただし、こうしたイデオロギーの内面化は、中坂個人の責任ではない。むしろ、彼女自身が「文化産業」の抑圧的なシステムの犠牲者だと言えるだろう。フロムが指摘するように、現代社会における個人は、自らのアイデンティティを市場の論理に譲り渡すことを強いられるのだ。
問題は、こうした状況を生み出す社会構造そのものにある。ハーバーマスの言葉を借りれば、「システム」の論理が「生活世界」を植民地化し、個人の自由な自己実現を阻んでいるのだ。アイドル産業は、その極端な例と言えるかもしれない。
しかし、だからこそ、中坂美祐の身体能力をめぐる議論は、私たち自身の問題でもあるのだ。私たちは、彼女の「卓越性」を称賛することで、無意識のうちに「文化産業」のイデオロギーを再生産している。アドルノが「否定弁証法」で示したように、私たちは自らの意識を批判的に問い直し、既存の価値観を乗り越えていく必要がある。
中坂美祐の身体は、私たち自身が抑圧されている現実を映し出す鏡なのだ。彼女の「SKEトップレベル」という評価は、私たちがいかに「競争」の論理に囚われているかを示している。私たちは、その事実を直視し、新たな社会のヴィジョンを構想せねばならない。そのとき初めて、中坂の身体は、抑圧からの解放を告げるメッセージとなるだろう。
私たちは、中坂美祐という「テクスト」を通して、自らのアイデンティティを取り戻さねばならないのだ。彼女の中に潜む「亀裂」を手がかりに、私たちは「文化産業」の呪縛から自由になることができるのである。
中坂美祐の運動能力とニーチェ
中坂美祐の卓越した運動能力は、単なる肉体的な強さを超えた、精神的な力の表れと言えるだろう。ニーチェは、「力への意志」を説いた。それは、自らの潜在能力を最大限に発揮し、困難に立ち向かう勇気と情熱である。中坂美祐の持久力とスプリント力は、まさにこの「力への意志」の具現化と言えよう。
ニーチェは、「超人」の概念を提唱した。それは、既存の価値観に囚われず、自ら新たな価値を創造する人間像である。中坂美祐は、その若さゆえに、まだ「超人」とは言えないかもしれない。しかし、彼女の運動能力は、「超人」への潜在的な資質を示唆している。SKEという枠組みの中で、彼女がどのような新しい価値を生み出していくのか。その可能性は無限大だ。
また、ニーチェは「永劫回帰」の思想を説いた。全ての出来事は無限に繰り返されるという考え方である。中坂美祐の運動能力は、彼女の人生においても、SKEの歴史においても、一つの転換点となるかもしれない。彼女の活躍が、SKEに新たな風を吹き込み、次なる世代へと受け継がれていく。そうした「永劫回帰」の中で、中坂美祐の存在は、大きな意味を持つのだ。
ただし、運動能力だけが全てではない。ニーチェは、「音楽」の重要性も説いた。それは、「アポロン的」と「ディオニュソス的」の調和を表す。中坂美祐には、運動能力という「ディオニュソス的」な側面だけでなく、アイドルとしての「アポロン的」な美しさや芸術性も求められる。両者のバランスを取ることが、彼女の成長には欠かせないだろう。
さらに、ニーチェは「パースペクティヴィズム」の重要性を説いた。物事には多様な見方があり、絶対的な真理などないという考え方だ。中坂美祐の運動能力は、確かに卓越している。しかし、それが彼女の全てではない。アイドルとしての魅力は、多面的に評価されるべきものだ。彼女自身も、自らの強みと弱みを冷静に見つめ、多様な視点を取り入れながら、成長していく必要がある。
中坂美祐の運動能力は、SKEにとって大きな財産となるだろう。しかし、それを最大限に生かすためには、彼女自身の意志と努力が不可欠だ。ニーチェが説くように、「自分自身になる」ことが重要なのだ。既存の価値観に囚われず、自らの道を切り拓いていく勇気を持つこと。そして、その過程で直面する困難に真摯に向き合うこと。それこそが、中坂美祐に求められる「超人」への道なのだ。
SKEにとって、中坂美祐の存在は、新たな時代の幕開けを告げるものかもしれない。彼女の「力への意志」が、他のメンバーにも伝播し、組織全体を活性化させていく。そうした変革の中で、SKEはより高みを目指すことができるだろう。中坂美祐という「超人」の種子が、どのような花を咲かせるのか。その行く末を見守ることが、我々に課せられた使命なのである。