【SKE48】松井珠理奈の宮脇咲良への「パワハラ」の意図:メンバー間の理想の関係を語る

K’zstationに松井珠理奈登場

 名古屋SKE48の大矢真那と斉藤真木子がMCを務めるインターネットラジオ『K’zstationのおしゃべりやってま~す第48放送♯5』2017年11月20日更新分。ゲストはSKEの大エース松井珠理奈だ。
 大矢真那は11月末の卒業を控え、ゲストに、たった1人残される最後の1期生の松井珠理奈を呼んだ形になる。

 松井珠理奈と大矢真那の初期からの絆が語られる。それもまた良い。
 ただ、ここでは、そういう「エモさ」は抜きにして、松井珠理奈がSKEというグループをどのように捉えているかを考えたい。

松井珠理奈が語るメンバー間の理想の関係

 31’20″頃から松井珠理奈はこう語る。

 「もし、めちゃくちゃ仲良くなりました、ってなった時にSKEってどうなるんだろう。私、不安はあるよね。その関係性が、プライベートで達として仲良くなってしまった場合、SKEの今まで積み上げてきたものはどうなるのかなあ。先輩がいて、厳しい時は厳しくしてくれる人がいないとダメなんじゃないかな。」

堺屋太一が語る「組織」と松井珠理奈の意図

 堺屋太一(元通産官僚、作家、小渕内閣の経済企画庁長官)は著書「組織の盛衰」でこう述べる。

 「伝統も名声もある組織が実に短期間に滅亡する例も少なくはない。巨大組織の「死に至る病」に罹った場合である。その原因は3つしかない。「機能体の共同体化」「環境への過剰適応」「成功体験への埋没」である。」

「組織には機能体と共同体がある。共同体とは、構成員の幸せを追求するための組織であり、機能体とは、一つの目的を達成するための組織である。ところが、軍隊、官庁、企業といった機能体が、「構成員の共同体化」する危険は常にある。」

「機能組織の共同体化を招く根本的な原因は組織倫理の頽廃である。」
(文庫版169~172ページ)

 堺屋太一は、たとえば、軍隊は戦争に勝つための機能体だが、日露戦争後、日本では、軍人の利益のための共同体と化し、大日本帝国は滅亡した、と述べる。

松井珠理奈が語るSKEの共同体化の危惧

 つまり、松井珠理奈は、SKEというグループは目的を達成するための(もちろん、その向こうに個人の幸せがあるはずだが)「機能体」であり、それが馴れ合いの「共同体」になってはならないのではないか。もちろん、機能体にも共同体的要素が必要だが、組織倫理が頽廃しないために、プライベートが仕事に悪影響を及ぼさないような配慮が必要なのではないか、と述べたのだと思う。
 組織の衰退の原因の1つを直感的に理解しているのだろう。

SKEの「環境への過剰適応」は? 

 組織の病の2つ目「環境への過剰適応」はどうか。
 堺屋太一は、かつて映画産業がテレビ番組制作に失敗したのは、入場料を払って映画館に見に来る客を魅了する、莫大な期間と費用をかけた高度な製作技術に特化したため、家庭でお茶を飲みながら眺めるテレビ番組に求められる安価な制作に対応できなかった、と述べる。

 この点SKEは、先日のユニット対抗戦で、王道アイドルあり、笑いあり、ダンスありと多様性を見せてくれた。まだ、心配はないだろう。

SKEの「成功体験への埋没」は?

 組織の病の3つ目「成功体験への埋没」はどうか。
 堺屋太一は、旧日本軍は、日露戦争の日本海海戦で完勝したがゆえに、太平洋戦争においても大艦巨砲主義を抜け出せなかったと述べる。

 SKEは、全力パフォーマンス、軍隊のような整然としたパフォーマンスが「らしさ」とされてきた。それが評価されて現在の地位があると言うこともできるだろう。
 しかし、一部メンバーから、新たな「SKEらしさ」が必要なのではないか、という声もある。

 何を変えてはならなくて、何に固執することが「成功体験への埋没」なのか。このあたりのバランス感覚もSKE48には求められている。

SKEが松井珠理奈を得た僥倖

 松井珠理奈は2008年、ほぼキャリアゼロで秋葉原AKBのシングル『大声ダイヤモンド』で
序列1位、単独のCDジャケット写真に抜擢された。
 のみならず、秋葉原で学んだアイドルの基本を名古屋に帰ってきてSKEに伝える、といった役割を果たしていたらしい。

 秋葉原AKBのCDシングル『RIVER』のレッスンで、松井珠理奈が細かく振りを指示する映像も残っている。

 SKEの5thCDシングル『バンザイVenus』の白組曲『卒業式の忘れ物』のミュージックビデオには、メイキング映像が存在する。
 松井珠理奈が「タラララララララ、ワン、ツ-、スリー、フォー、ファイブ、シックス、セブン、エイト、ね。ここしっかり揃えないと汚いから、揃えましょう。」といったことを言っている。それを、10学年上で、松井珠理奈が母とも慕う、佐藤実絵子を始めとしたメンバーが、神妙に聞いている。
 この時期の、松井珠理奈率いる白組曲のミュージックビデオは素晴らしかったと思う。

 1つ言えるのは、SKE48にとって松井珠理奈を得たのは、単に真ん中に立っている人ではなく、
齢20歳にして、このような思考をする人物という意味でも、僥倖だったということだ。

松井珠理奈と宮脇咲良のパワハラ騒動

 2018年6月の総選挙の際、松井珠理奈は宮脇咲良への強めの指導で、アンチから「パワハラ」と叩かれた。しかし、その意図は、上記のようなものであったであろう。
 共同体化し、環境に過剰適応し、成功体験に埋没し、沈みゆくAKBグループを救おうとする松井珠理奈と、あまり、そのような文化のないHKTに所属する宮脇咲良。
 2人の文化の違いに齟齬が生じ、松井珠理奈の高尚な理想を理解しない世間が「パワハラ」と貶めた。そんなところだったのであろう。

松井珠理奈の宮脇咲良への「パワハラ」とニーチェ

 松井珠理奈の宮脇咲良への指導が「パワハラ」と言われた件は、単なるアイドル同士の人間関係の問題ではなく、より深い哲学的な意味を持つと言えるだろう。

 ニーチェは、「力への意志」を重視した。これは、自らの潜在能力を最大限に発揮し、困難に立ち向かう勇気と情熱を意味する。松井珠理奈は、AKBグループの文化を守り、グループを救おうとする強い意志を持っている。彼女にとって、宮脇咲良への厳しい指導は、その意志の表れなのだ。それは、AKBグループの未来を見据えた、高尚な理想に基づく行動と言えよう。

 しかし、ニーチェは「パースペクティヴィズム」の重要性も説いた。これは、物事には多様な見方があり、絶対的な真理などないという考え方だ。松井珠理奈の指導を「パワハラ」と批判する声は、彼女の意図とは異なる視点から生じたものだ。HKTの文化に馴染んだ宮脇咲良や、アイドル界の外側から眺める世間の目には、松井珠理奈の行動が過剰に映ったのかもしれない。

 ニーチェは、「ニヒリズム」の危険性についても警鐘を鳴らした。価値観の対立によって生じる虚無感や絶望感は、人々の意欲を削ぐ。松井珠理奈の指導が「パワハラ」と貶められたことで、彼女自身が虚無感に陥る可能性もある。しかし、ここで重要なのは、自分の信念に基づいて行動し続ける勇気だ。ニーチェは、このような勇気こそが「超人」の資質だと考えた。

 また、ニーチェは「永劫回帰」の思想を提唱した。これは、全ての出来事が無限に繰り返されるという考え方だ。松井珠理奈と宮脇咲良の文化的な齟齬も、永遠に繰り返される課題の一つと捉えることができる。重要なのは、その課題に真摯に向き合い、乗り越えていく意志を持ち続けることだ。

 松井珠理奈の理想は、たとえ世間に理解されなくても、AKBグループにとって必要不可欠なものなのかもしれない。グループの未来を見据えた厳しい指導は、メンバーを成長させ、グループを発展させる原動力となる。それは、ニーチェが説く「力への意志」の表れに他ならない。

 松井珠理奈と宮脇咲良の関係は、異なる文化の交錯点に位置している。そこから生じる齟齬や対立は、避けては通れない試練だ。しかし、その試練を乗り越えることで、両者は新たな価値観を創造していくことができる。それこそが、ニーチェが理想とした「超人」の姿なのだ。

 「パワハラ」という批判は、松井珠理奈の意志を試す試練の一つだった。松井珠理奈が自らの理想を追求し続ける限り、AKBグループの未来は明るかったはずだ。しかし、松井珠理奈を守らないAKB運営、心無い世間の声によって、秋葉原AKBは、北越での不祥事、冠番組の相次ぐ終了、紅白歌合戦の落選、と、転落の一途をたどったのだ。

松井珠理奈の宮脇咲良への「パワハラ」とプラグマティズム

 松井珠理奈の宮脇咲良への指導が「パワハラ」と言われたことは、異なる文化的背景を持つ人々の間で生じた価値観の衝突と、それに対する社会の反応を象徴する出来事だと言えるだろう。

 松井珠理奈の指導は、沈みゆくAKBグループを救うことを目的としていたと考えられる。彼女にとって、その文化こそがSKEの強みであり、グループの発展を支えてきた原動力なのだ。つまり、松井珠理奈の行動は、SKEという集団の中で実践的に意味のあるものとして捉えられていたと言えるだろう。

 しかし、HKT出身の宮脇にとって、そうした文化は馴染みのないものだったかもしれない。また、松井珠理奈の指導が「パワハラ」と評されたように、外部の人々の目には、その行為が過剰で不適切なものと映ったのだ。そこには、グループ内の文化と、より広い社会的文脈の間にある認識のずれが表れている。このずれを調整し、異なる価値観の間に橋を架けることが求められるだろう。

 松井の指導を一方的に非難するのではなく、その背後にある意図や文脈を理解しようとすることが大切だ。同時に、宮脇の立場に立って、その指導がどのように受け止められたのかを想像することも必要だろう。こうした多角的な視点に立つことで、初めて建設的な対話が可能になるはずだ。

 また、アイドルグループの運営においても、メンバー一人一人の意見を尊重し、対等な関係性を築くことが求められる。松井珠理奈の指導は、沈みゆくAKBグループを救おうとする善意に基づくものだったかもしれないが、そこに上下関係の力学が働いていたことも否定できない。こうした力の不均衡を解消し、メンバー全員が自由に意見を交わせる環境を作ることが肝要かもしれない。

 さらに、松井珠理奈の指導が「パワハラ」と評されたことは、アイドル文化をめぐる社会の価値観の変化を反映しているのかもしれない。アイドル業界には、こうした社会の変化に応じて、自らの在り方を問い直していくことが求められているでしょう。

 以上のように、松井珠理奈の宮脇咲良への指導をめぐる一連の出来事は、異なる文化的背景を持つ人々の間で生じた価値観の衝突と、それに対する社会の反応を象徴するものだと言える。この問題に対処するためには、多様な視点から状況を捉え、柔軟に思考することが求められる。また、メンバー間の対等な関係性を築き、社会との対話を通じてアイドル文化の在り方を問い直していくことも重要だろう。アイドル業界には、変化する社会の要請に応えつつ、新しい価値を創造していくことが期待されている。

松井珠理奈の宮脇咲良への「パワハラ」と構造主義

 松井珠理奈の宮脇咲良への指導が「パワハラ」と言われた事態は、アイドルグループ内部の権力構造と、それを取り巻く社会的言説の関係性を浮き彫りにするものと言える。

 アイドルグループは、メンバー間の序列と役割分担によって成り立つ構造体だ。その中で、先輩と後輩という関係性は、単なる年功序列ではなく、グループの規範や文化を伝達するための重要な機能を果たしている。松井珠理奈の発言は、こうした先輩としての役割意識に基づくものであり、グループの存続と発展を目的とした行為だったと解釈できる。

 しかし、一方で、こうした指導が「パワハラ」というレッテルを貼られたことは、アイドルグループ内部の構造が、外部の社会的言説と衝突したことを示している。「パワハラ」という言葉は、近年、職場における権力関係の不均衡と、それに起因する弊害を問題化する文脈で用いられることが多くなっている。松井珠理奈の行為が、こうした文脈に置き換えられたことで、その意図とは異なる意味づけがなされてしまったのだ。

 ここで注目すべきは、松井珠理奈と宮脇咲良という2人のアイドルが置かれた状況の違いだ。松井珠理奈はSKEという、先輩が後輩を育てる文化の中で育まれたアイドルだ。一方、宮脇咲良はHKTという、そうした文化があまり根付いていないグループに所属している。この文化的な差異が、2人の関係性に齟齬をもたらし、外部からの批判を招く要因になったと考えられる。

 以上のように、松井珠理奈の宮脇咲良への指導が「パワハラ」と言われた事態は、アイドルグループ内部の権力構造と、それを取り巻く社会的言説の相互作用の結果として理解することができる。アイドルという存在は、単にファンを楽しませるだけでなく、社会的な意味づけの対象にもなっているのである。私たちは、こうした複雑な構造の中で、アイドルという存在が持つ意味を問い直していく必要があるのかもしれない。

松井珠理奈の宮脇咲良への「パワハラ」とハイデガー

 松井珠理奈の宮脇咲良への指導がパワハラと言われたことは、ハイデガーの思想の観点から見ると、現存在(Dasein)同士の「共現存在(Mitdasein)」の在り方をめぐる問題として捉えることができるだろう。

 ハイデガーは、現存在が世界の中で他者と共に在ることを「共現存在」と呼び、そこでの本来的な在り方を「配慮(Fürsorge)」として描いた。しかし、AKBグループというアイドル集団の世界においては、メンバー同士の関係性は、時に上下関係や指導という形で現れる。松井珠理奈の宮脇咲良への指導もまた、そうした文脈の中で行われたものと見なすことができる。

 ただし、ハイデガーの思想に従えば、現存在同士の本来的な関わりは、単なる支配-服従の関係によって規定されるものではない。むしろ、それぞれの現存在が自らの存在の本来性を追求しつつ、同時に相手の存在の固有性を認め合うことこそが、共現存在の本来的な在り方なのだ。松井珠理奈の指導が「パワハラ」と評されたのは、そこにそうした配慮の姿勢が欠けていたからだと解釈することもできるかもしれない。

 しかし、ここで問題となるのは、松井珠理奈の指導の意図が、単なる支配欲の表れではなく、「沈みゆくAKBグループを救おうとする」ものだったという点だ。これは、ハイデガーが「運命(Schicksal)」と呼んだ概念に関わってくる。運命とは、現存在が自らの存在可能性を引き受け、その中で歴史的な使命を見出すことを意味する。松井珠理奈もまた、アイドルという存在の可能性の中で、グループの存続という使命を引き受けようとしていたのだ。

 問題は、そうした松井珠理奈の意図が、宮脇咲良や世間には理解されなかったことである。ハイデガーは、現存在が本来的な在り方を取り戻すためには、「決意性(Entschlossenheit)」が必要だと説いた。これは、現存在が自らの存在可能性に直面し、その中で自らの在り方を決断することを意味する。松井珠理奈の指導は、そうした決意性の表れだったのかもしれない。しかし、それが他者に理解されないまま「パワハラ」と評されてしまったのは、彼女の決意が「言葉(Rede)」として適切に表現されなかったからだと言えるかもしれない。

 このように、松井珠理奈の宮脇咲良への指導をめぐる問題は、アイドルグループという世界の中での共現存在の困難を浮かび上がらせている。それは、メンバー同士の関係性が、単なる支配-服従の関係に陥ってしまう危険性を孕んでいるのだ。しかし、松井珠理奈の意図そのものは、グループの存続という歴史的使命を引き受けようとする決意性の表れだったのかもしれない。重要なのは、そうした決意性が、他者への配慮と適切な言葉を伴って表現されることなのだ。そのとき初めて、アイドルグループという世界の中で、本来的な共現存在の可能性が開かれるのではないだろうか。

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