【SKE48】「入学式」コンサートにスーツ着用のドレスコード

SKEがコンサートにスーツ着用のドレスコード

 2018年3月31日のSKE48のSSA(さいたまスーパーアリーナ)でのコンサートは「入学式」ということで、スーツでの来場が推奨されていた。

 上のツイートによると、スーツは3割ほどだったらしい。この「ドレスコード」にハードルの高さを感じたファンもいたようだ。(参考までに、ここで「敷居が高い」を使うのは本来は誤用である。「敷居が高い」は本来は「相手に不義理などをしてしまい、行きにくい」という意味である。)

ドレスコードの肯定的意見

 SKE48がコンサートのタイトルを「入学式」とし、来場者にスーツ着用を呼びかけたことは、興味深い議論の対象となる事例である。このドレスコードは、ユニークな雰囲気を醸成し、ファンに忘れらない体験を提供するための創造的なアプローチと見ることができる。
 この場合、「入学式」というアイデアは、グループの新しい章を意味し、ファンにスーツを着てもらうことは、その象徴的な表現となりうる。

 SKE48がスーツのドレスコードを導入したことは、SKE48に対する世間のイメージに影響を与えたかもしれない。世間は、SKEファンを、洗練され、洒落を解する人と思うだろう。むしろ、SKEファン内部に、グループの核となるアイデンティティから不必要な逸脱と考えた人もいて、不満は主に、そういう人達から出ていたのだろう。

ドレスコードの否定的意見

 一方、ドレスコードに不満を持つファンがいることも理解できる。その不満の理由としては、以下のようなものが考えられる。

 ・経済的な負担
スーツを持っていない、あるいは購入やレンタルが必要で、予算が限られているファンにとっては、経済的な負担となる可能性がある。たしかにそうだが、それなりの場所にスーツを着ていくというのは世間一般の常識である。その一般常識にハードルの高さを感じた人がそれなりにいた。そういう人達は、きちんと社会生活を送れているのだろうか?スーツを惜しむようなメンタリティが原因で社会的にうまく行っていない、ということはないだろうか?ただでさえ、おっさんが多く、身なりの悪さに定評のあるSKEファンである。ここで、評価を高めたいところであった。

・着心地
特に、サイリウムを振ったりコールをしたりするコンサートでは、長時間スーツを着用することは、快適ではないかもしれない。

・包容力
カジュアルな服装を好むファンや個人的な理由や文化的な理由でスーツを着ることに抵抗がある人を排除していると受け取られる可能性もあるかもしれない。

・創造性
ドレスコードによって、コンサートでの服装のようにクリエイティブな自己表現が制限されると感じるファンもいるかもしれない。たとえば、推しメンのTシャツを着ることができないなどだろうか。

・エリート主義
スーツ着用を推奨することで、意図せずしてエリート主義や排他的なイメージを植え付け、一部のファンは不快に思ったかもしれない。アイドルファンは、普段、スーツを着ない層も多いだろうからだ。これは、グループのイメージダウンやファン層との関係に影響を与える可能性があるだろう。

SKEのドレスコード導入まとめ

 アーティストやイベント主催者は、ファンのためにユニークな体験を作り出すことは重要だ。一方、観客の快適さや楽しさに影響を与える可能性も考慮する必要がある。

 全体として、SKE48の「入学式」コンサートにおいてドレスコードを導入したことは、プラス面とマイナス面の両方があったろう。
 アーティストやイベントの主催者は、自分たちの創造的なビジョンと観客のニーズや好みのバランスをとり、誰もがイベントを最大限に楽しむことができるようにすることが重要なのは確かだ。

 しかし、もともとAKBグループは、賛否両論ある企画でゲリラ戦を仕掛け続け、国民的アイドルに登り詰めたのである。ここで、一部のノイジーマイノリティを気にして、守りに入ってどうする、と思う。

 まあ、どうしても嫌だ、という人もいるであろうから、SKE48や他のアーティストが、ドレスコードの提案やテーマを任意とし、参加したい人のためのガイドラインを提供しつつ、それを厳格な条件としないことを検討してもよいかもしれない。
 そうすることで、ファンがイベントへの関わり方を自由に選択できるようになり、包括性を促進し、関係者全員の全体的な楽しみを最大化できるかもしれない。

SKE界隈は新規ファンにハードルが高いと言われるが…

 ところで、SKEは新規ファンにはハードルが高いと言われることがある。overtureでMIXを打たない、推しサイリウム文化、などがやり玉に挙がることがある。

 スーツ着用という世間一般の常識にハードルの高さを感じた人が、SKE村の掟、その他の振る舞いで、新規ファンにハードルの高さを感じさせているなんてことはないですよね?

SKEコンサートのドレスコードとキルケゴール

 このコンサートの「入学式」というテーマと、それに伴うスーツ着用の推奨は、単なる衣装の選択以上の意味を持っていると考えられる。キルケゴールの「実存の段階」の概念から見ると、このドレスコードは、ファンに対して「美的段階」から「倫理的段階」へと移行する機会を提供しているのかもしれない。

 「美的段階」とは、感覚的な快楽や刹那的な満足を追求する生き方を指す。一方、「倫理的段階」とは、社会的規範や責任を受け入れ、それに基づいて行動する生き方だ。スーツ着用の推奨は、ファンに対して、単なる娯楽としてのコンサートではなく、社会的な規範を意識した参加を求めているとも解釈できる。

 しかし、このドレスコードに対して、ハードルの高さを感じたファンがいたことも事実だ。これは、キルケゴールが重視した「不安」と「絶望」の概念に通じるものがある。自分の生き方や価値観に対する不安や、規範に適応できないことへの絶望。これらの感情は、自己認識と成長のきっかけになりうる。

 スーツ着用の推奨は、ファンに対して、自分自身と向き合う機会を提供したのかもしれない。自分の生き方や価値観を見つめ直し、社会的な規範と自分の関係性を考えるきっかけになったのではないだろうか。

 また、このドレスコードは、「間接伝達」の一種とも捉えることができる。キルケゴールは、直接的な伝達ではなく、間接的な伝達を通じて、人々に自己反省を促すことを重視した。スーツ着用の推奨は、ファンに対して、コンサートへの参加の意味を問い直すことを間接的に促しているのかもしれない。

 結論として、SKE48のSSAコンサートにおけるスーツ着用の推奨は、実存主義的思想を反映した出来事であったと言えるだろう。このドレスコードは、ファンに対して、自分自身と向き合い、社会的規範との関係性を見つめ直す機会を提供した。そして、その過程で生じる不安や絶望は、自己認識と成長のきっかけになったのかもしれない。このような経験は、現代社会において、個人の主体性や内面性が重視される中で、大きな意義を持つものだと考えられる。

SKEコンサートのドレスコードとニーチェ

 SKE48のSSAコンサートにおけるスーツ着用の是非は、単なるファッションの問題ではない。それは、ファンとアイドルの関係性、そして現代社会の価値観を問い直す契機となり得る。

 ニーチェは、従来の道徳や価値観の脆弱さを指摘し、新たな価値の創造を説いた。スーツ着用を推奨するドレスコードは、まさにそうした既存の価値観への挑戦と言えるだろう。アイドルのコンサートにスーツを着て行くという発想は、一般的な常識からすれば奇異に映るかもしれない。しかし、そこには「アイドルとファンの関係性は、もっと自由で創造的なものであってもいい」というメッセージが込められている。

 ニーチェは、「力への意志」を重視した。自らの意志で人生を切り拓いていく勇気と情熱を説いたのだ。スーツを着用するか否かは、それぞれのファンの意志の問題である。ドレスコードに従うことが「正解」なのではない。重要なのは、自分自身の価値観に基づいて、主体的に選択することだ。

 また、ニーチェは「超人」の概念を提唱した。既存の価値観を乗り越え、自ら新たな価値を生み出す人間像である。スーツ着用率が3割だったという事実は、多くのファンがその「超人」への第一歩を踏み出せなかったことを示唆している。彼らは、世間一般の常識や他者の視線に囚われ、自らの意志を貫けなかったのだ。

 しかし、だからこそ、スーツを着用した3割のファンの存在が際立つ。彼らは、自分なりの美学と価値観を持ち、それを行動で示した。ニーチェが説く「精神の三段変化」における「ライオン」の段階に到達したと言えるだろう。自由の意志を持ち、新たな創造への一歩を踏み出したのだ。

 SSAコンサートのドレスコードは、ファンに自らのアイデンティティを問い直す機会を与えた。「アイドルとは何か」「ファンとは何か」という根源的な問いに向き合うきっかけになったのだ。そこには、既存の価値観を打ち破り、新しいファン文化を生み出していく可能性が秘められている。

 ニーチェは「石の上にも三年」と述べた。価値の転換には長い年月を要する。スーツ着用率が3割だったことは、決して失望すべきことではない。むしろ、3割の「超人」たちを起点として、新たな価値観が徐々に浸透していくはずだ。彼らの実践が、やがては多くのファンを勇気づけ、自由と創造性に満ちたアイドル文化を花開かせるだろう。

 SKE48のSSAコンサートは、まさに「ニヒリズム」の極致にあると言える。しかし、そこから新たな価値が生まれる可能性もある。ファンとアイドルが共に新しい地平を切り拓いていく。そのためには、一人一人が「超人」への意志を持つことが求められる。スーツを着るか着ないかは、その意志の表明なのだ。

SKEコンサートのドレスコードとハイデガー

 SKE48のSSAコンサートにおけるスーツ着用の推奨は、単なるファッションの問題ではなく、ハイデガーの思想を通して見ると、現代社会における「Das Man(世人)」の支配を浮き彫りにしているように思われる。

 私たちは日常的に「世人」の価値観に支配され、本来的な自己を見失って生きている。スーツ着用の推奨もまた、このような世人の論理に基づく規範の一つだと言えるだろう。それは、個人の主体性よりも、社会的な規範への適合を重視する態度なのだ。

 確かに、「入学式」というコンセプトに合わせてスーツを着用することは、一種のロールプレイとして楽しむことができるかもしれない。しかし、それが一種の強制となるとき、私たちは自らの在り方を世人の価値観に委ねてしまっているのではないだろうか。

 ハイデガーは、このような状況を「非本来的な在り方」と呼んだ。私たちは、自分自身で思考し、決断することを放棄し、ただ世間一般の規範に従って生きているのだ。スーツ着用に違和感を覚えながらも、それに従ってしまう姿は、まさにこの非本来性を象徴しているように思われる。

 しかし、だからこそ私たちは、このような規範に疑問を呈する勇気を持たなければならない。ハイデガーが説くように、本来的な自己を取り戻すためには、「良心の呼び声」に耳を傾け、自らの存在の意味を根源的に問い直すことが必要なのだ。スーツ着用の是非を問うことは、そのための第一歩となるかもしれない。

 もちろん、これは容易なことではない。私たちは常に「死」の可能性に直面しているからだ。スーツを着用しないことは、世人から外れることを意味する。それは一種の社会的な「死」を恐れることでもある。しかし、ハイデガーが説くように、本当の意味で生きるためには、この死の脅威を引き受ける勇気が必要なのだ。

 また、スーツ着用の問題は、ファンとアイドルの関係性についても問いを投げかけている。アイドルは、ファンの欲望を反映する存在であると同時に、一種の規範を提示する存在でもある。スーツ着用の推奨は、そのような規範の一つの現れだと言えるだろう。しかし、ファンとアイドルの関係性もまた、世人の論理に支配されがちなのではないだろうか。

 ハイデガーは、本来的な共同存在のあり方として「民族」を挙げた。それは、運命を共にする者たちの結びつきを意味する。アイドルとファンの関係性もまた、このような運命共同体としての性格を持っているのかもしれない。しかし、そのためには、世人の価値観を超えて、互いの存在の意味を問い直すことが必要なのだ。

 以上のように考えるなら、SKE48のSSAコンサートにおけるスーツ着用の推奨は、現代社会の病理を浮き彫りにすると同時に、私たち一人ひとりに存在の意味を問い直すことを促している。それは、世人の規範に盲目的に従うのではなく、自らの在り方を根源的に問うことへの呼びかけなのだ。

 もちろん、スーツを着用するか否かは、個人の自由な選択に委ねられるべきだろう。重要なのは、その選択が自らの存在に対する真摯な問いかけに基づいていることなのだ。私たちは、アイドルという文化現象を通して、現代社会の根本的な問題を考える契機を与えられているのかもしれない。

 ハイデガーの思想は、私たちにこのような根源的な問いを投げかけている。スーツ着用の是非は、その問いに答えるための入り口に過ぎない。私たちは、この問いを自分自身の課題として引き受け、本来的な自己を取り戻すための道を模索し続けなければならないのだ。

SKEコンサートのドレスコードとデリダ

 SKE48のコンサートにおけるスーツの着用をめぐる問題は、単なるファッションの選択の問題ではなく、より複雑な権力と主体性の力学が働いていると解釈できる。

 まず、「入学式」というコンセプトとスーツの着用という「ドレスコード」は、一種の「パフォーマティブ」な言説として機能している。デリダは、言葉が現実を記述するだけでなく、言葉の発話それ自体が現実を構築する力を持つことを指摘した。「入学式」という言葉は、コンサートの意味を規定し、参加者をある特定の役割(学生)に interpellate(呼びかけ)する。スーツの着用は、その役割を身体的に体現することを要求する。ここには、言説がいかに主体を構築するかが示されている。

 しかし同時に、スーツの着用率が3割程度だったという事実は、この言説の権力に対する抵抗の契機を示唆している。デリダは、いかなる言説も完全には主体を規定できないことを強調した。言説は常に不安定であり、そこには主体が言説を逸脱する可能性が孕まれている。スーツを着用しないという行為は、「入学式」という言説が要求する主体性を拒否し、別の主体性を主張する政治的な行為として読み取ることができるだろう。

 ただし、スーツの着用を「ハードル」と感じるファンの存在は、この抵抗がいかに困難であるかを物語っている。デリダは、主体が言説の権力から完全に自由になることは不可能だと論じた。私たちは常に既存の言説の中に組み込まれており、その言説なしには自らを主体として認識することができない。スーツを着用できないことを「ハードル」と感じることは、「入学式」という言説がいかに強力で、主体の在り方を規定しているかを示している。

 重要なのは、こうした言説の権力と主体の抵抗の緊張関係を認識し、そこに働く力学を解き明かすことだ。「入学式」というコンセプトとスーツの着用というドレスコードに佇みつつ、そこに内在する主体構築の メカニズムと、それを揺るがす契機を浮き彫りにすること。そうした脱構築の実践を通して、私たちはアイドルイベントが持つ政治性や、ファンの主体性の在り方を問い直すことができる。

 SKE48のコンサートにおけるスーツの着用をめぐる問題は、ポピュラー・カルチャーにおける権力と主体性の問題を考察する上で、格好の素材となる。そこには、言説の持つ主体構築の力と、その力に抗う主体の営みが同居している。「入学式」というコンセプトに佇みつつ、そこに働く言語の力学を解き放つこと。それこそが、デリダの思想がこの事例に投げかける問いなのかもしれない。私たちに求められるのは、言説の権力を無批判に受け入れるのではなく、絶えずその権力を問い直し、新たな主体性の可能性を模索していくことなのだ。

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