【SKE48】松井珠理奈と小畑優奈:『無意識の色』MV公開

『無意識の色』センターは2作続けて小畑優奈

 SKE48の22ndシングル『無意識の色』のMVが公開された。

 センターは2作続けて小畑優奈。松井珠理奈ではない。
 ちなみに、冒頭、小畑優奈が1stシングル『強き者よ』(松井珠理奈、古いSKEの象徴だろう)の衣装と、前作、小畑優奈が初めてセンターを務めた『意外にマンゴー』(小畑優奈、新しいSKEの象徴だろう)の衣装を天秤にかけ、『意外にマンゴー』の衣装を選ぶシーンがある。これは、松井珠理奈の発案だと、何かの配信で語っていた。松井珠理奈は、SKEのセンターは退く覚悟だったことが伺える。勝負はAKBの総選挙のみだと思っていたのだろう。

 (追記、2018年の総選挙では、松井珠理奈は1位を獲得するが、おそらく松井珠理奈の意図とは反して、AKB選抜での扱いは、むしろ、かつてより悪くなり、SKEのシングルのセンターに復帰することになる。)

 小畑優奈のアイドル性、センター適性、小畑優奈にSKE48を委ねていいのかなどにについてはここでは論じない。

松井珠理奈と野村克也氏のエース論

 松井珠理奈がセンターであることは、どういうことかを考えたいと思う。

 2012年9月に発売されたSKEの10thシングル『キスだって左利き』の特典映像で松井珠理奈は、プロ野球の名将、野村克也氏と対談した。野村克也氏には『エースの品格』という著書がある。そのまえがきから引用しよう。

「中心なき組織は機能しない」

「彼ら(エース、四番打者)はチームの鑑となって組織を牽引し、勝利へと導いていかなければならない」

「まず組織のために身を挺する覚悟がなければ組織そのものが成り立たない」

 

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 対談時、松井珠理奈は高1、15歳だった。
 松井珠理奈は、まず(編集上の前後はあるかもしれないが)野村克也氏にチームをまとめる為のコツを尋ねている。野村克也氏は「信は万物の基をなす」と答えている。

 そして、野村克也氏は松井珠理奈に「エースだって?聞いたけど」と語りかける。エース論のスタートだ。
 松井珠理奈は「引っ張っていかなきゃいけない立場なんだなっていうのはありますね」と答えただけだが、野村氏は「それは立派なエースの自覚じゃない」と褒めている。

 続いて野村氏は「あなたはエースと思う人はどんな人か考えた事ないかな」と問いかける。松井珠理奈は、前田敦子が体調が悪くても出演したことにエースの自覚を感じたこと、裏では努力、我慢が必要、心が強くないと務まらない、などと述べている。それに対し、野村氏は「あなた本当に15歳?しっかりしすぎている」「立派なエース論だわ」「楽天に来て講演やってくれる?」などと絶賛している。

 対談後に野村氏は「15歳とは思えない発想、考えが随所に出ていましたから、人の上にたっても十分対応していけるんじゃないですか」と締めている。

 小畑優奈1人がこれらを全て引き受ける必要はないだろう。荷物を一緒に持ってくれるのは、いまだに松井珠理奈であり、将来的には、同期の後藤楽々、浅井裕華あたりかもしれない。

松井珠理奈がセンターである意味

 ただし、松井珠理奈がただ物理的に真ん中に立っていたのだと思っている人が多いようだと、SKEは急速に衰退するのではないだろうか。

 松井珠理奈は「中心なき組織は機能しない」といった用法においても、中心、センターだったのである。

 追記、小畑優奈は早くもこの1年あまり後、2019年3月にSKEを去ることになる。

松井珠理奈と小畑優奈とプラグマティズム

 SKE48のCDシングルのセンターポジションは、単なる人気投票の結果ではなく、グループの方向性や価値観を体現する象徴的な役割だと言える。

 プラグマティズムは、知識や行動の価値を、その実用性によって判断する。アイドルグループにおけるセンターポジションは、グループの顔として、パフォーマンスの質やグループの一体感を左右する重要な役割だ。松井珠理奈は、長年SKE48のエースとして活躍し、リーダーシップを発揮してきた。彼女がセンターに立つことは、グループの求心力を高め、パフォーマンスの質を維持するために実践的な意味がある。

 また、松井珠理奈が野村克也氏との対談で示したエース論は、彼女自身の経験に基づいたものだ。エースとしての自覚、努力と我慢、強い心。これらは、松井が実際のアイドル活動の中で体得してきた価値観である。彼女がセンターに立つことは、こうした経験に裏打ちされた知恵をグループに浸透させることにつながる。

 さらに、アイドルグループを取り巻く環境は常に変化している。新しいメンバーの加入、人気の移ろい、ファンの嗜好の変化など、様々な要因に対応していく必要がある。松井珠理奈と小畑優奈、二人のエースを柔軟に起用することは、グループの環境適応力を高めることにつながるだろう。

 加えて、アイドルグループの運営においても、メンバーの意見を尊重し、協働する姿勢が求められる。松井珠理奈がセンターの座を小畑優奈に譲ることは、グループ内の民主的な意思決定の表れだと見ることができる。また、二人のエースが協力し合う姿は、ファンに対して、協調性の大切さを示すメッセージにもなり得る。

 ただし、松井珠理奈のエース論は、現時点では示唆に富むものだが、状況の変化に応じて、柔軟に更新されていく必要がある。また、小畑優奈がセンターに立つことで、新たなグループの在り方が模索されることも期待される。二人のエースには、お互いの長所を活かしつつ、新しい価値を創造し続けることが求められるだろう。

 以上のように、SKE48のセンターポジションは、単なる人気の指標ではなく、グループの価値観や方向性を体現する重要な役割だと言える。松井珠理奈と小畑優奈、二人のエースを柔軟に起用することは、グループのパフォーマンス力を維持し、環境適応力を高めるための実践的な選択だと評価できる。また、二人が協力し合う姿は、民主的な意思決定とメンバー間の協調性の表れでもある。ただし、彼女たちには、固定的なエース像にとらわれることなく、常に新しい価値を創造し続けることが求められる。

松井珠理奈と小畑優奈とフランクフルト学派

 SKE48のCDシングルのセンターポジションをめぐる議論は、単なるアイドルグループ内の序列の問題ではなく、「文化産業」の本質を露呈するイデオロギー的な争点だと言えるだろう。

 まず、松井珠理奈と小畑優奈という二人のアイドルは、「商品」としての価値を競い合わされている。彼女たちの個性や能力は、市場の論理に従って評価され、序列化される。これは、アドルノが批判した「文化産業」の非人間的な性格を示すものだ。個人は、交換可能な商品として扱われ、その固有性は抑圧されるのである。

 また、「エース」や「センター」といった言葉は、アイドル産業における支配的なイデオロギーを反映している。野村克也との対談で語られた「エース論」は、リーダーシップや責任感といった価値観を称揚するが、それは結局のところ、産業の要請に個人を従属させるための装置なのだ。これは、マルクーゼが「一次元的社会」と呼んだ、全体主義的な状況の一例と言えるだろう。

 さらに、松井珠理奈が「中心」としての役割を担うことは、アイドルグループという「疑似的共同体」を維持するためのイデオロギー的な操作だと見ることができる。ハーバーマスが指摘するように、現代社会において「コミュニケーション的行為」は歪められ、権力による支配に置き換えられる。「中心なき組織は機能しない」という言説は、そうした支配を正当化する神話なのだ。

 ただし、こうしたイデオロギーの再生産は、松井珠理奈個人の責任ではない。むしろ、彼女自身が「文化産業」の抑圧的なシステムの犠牲者だと言えるだろう。フロムの言葉を借りれば、彼女は「自由からの逃走」を強いられ、自らのアイデンティティを市場の論理に譲り渡すことを求められているのだ。

 問題の本質は、アイドルという存在そのものが「疎外」された労働の産物だということだ。マルクスが指摘したように、資本主義社会における労働者は、自らの活動の成果から切り離され、商品として対象化される。アイドルもまた、自らの身体と感情を「商品」として売ることを強いられるのである。

 したがって、センターポジションをめぐる議論は、この根本的な問題を覆い隠すイデオロギー的な装置だと言えるだろう。私たちは、松井珠理奈と小畑優奈の序列を問うことで、アイドル産業の抑圧性を見失ってはならない。アドルノの「否定弁証法」が示唆するように、既存の枠組みを絶えず乗り越えていく批判的精神こそが必要なのだ。

 SKE48のCDシングルをめぐる議論は、私たち自身の「疎外」を映し出す鏡でもある。彼女たちの状況を通して、私たちは自らが「商品」として対象化されていることを自覚せねばならない。そのとき初めて、新たな社会のヴィジョンが開かれるだろう。アイドルの「解放」は、私たち自身の解放でもあるのだ。

 私たちは、松井珠理奈と小畑優奈という「テクスト」を批判的に読み解くことで、「文化産業」の呪縛から自由になる道を模索せねばならない。彼女たちの中に潜む「亀裂」を手がかりに、私たちは新たな希望を紡ぎ出すことができるのかもしれない。センターポジションの行方は、私たち自身の未来を照らし出す光なのである。

松井珠理奈と小畑優奈とハイデガー

 ハイデガーにとって、人間の存在は、常にすでに特定の意味連関の中に組み込まれている。私たちは、自らが投げ込まれた状況の中で、固有の可能性を引き受けながら生きているのだ。アイドルグループもまた、メンバー同士の関係性や、ファンとの絆など、様々な意味の織りなす世界の中に存在している。

 この観点から見ると、センターポジションもまた、単なる物理的な位置ではなく、グループの在り方を規定する存在論的な意味を持っていると言えるだろう。それは、メンバーの個性や能力、そしてグループの方向性を象徴する位置なのだ。

 松井珠理奈は、長年にわたってSKE48のエースとして活躍してきた。彼女がセンターに立つことは、グループの中心としての役割を果たすことを意味する。野村克也氏との対談で示されたように、松井珠理奈はエースとしての自覚を持ち、グループを引っ張っていく覚悟を持っている。これは、ハイデガーが重視した「本来的な自己」の在り方に通じるものがある。

 しかし、ここで重要なのは、松井珠理奈個人の資質だけではなく、彼女を中心としたグループの在り方そのものだ。ハイデガーは、人間を「共同存在」として捉えた。私たちは、他者との関わりの中でこそ、自らの存在の意味を見出すことができるのだ。SKE48もまた、メンバー同士の絆なくしては、その存在意義を失ってしまうだろう。

 小畑優奈がセンターに立つことは、このような状況の中で、新たな可能性を切り拓く試みだと言えるかもしれない。彼女は、松井珠理奈とは異なる個性と魅力を持っている。それは、グループの多様性を示すと同時に、新たな世代の台頭を象徴しているのだ。

 ただし、ここで忘れてはならないのは、センターポジションの意味は、単に個人の能力や人気だけで決まるものではないということだ。それは、グループ全体の在り方と密接に関わっている。野村克也氏が「中心なき組織は機能しない」と述べたように、センターは単なる象徴ではなく、グループを導く存在なのだ。

 ハイデガーは、「言葉」を「存在の家」と呼んだ。私たちは、言葉を通して世界を理解し、他者とつながる。センターポジションもまた、グループの在り方を言い表す言葉だと言えるだろう。それは、単なる個人の称号ではなく、メンバーの結束と、ファンとの絆を示す象徴なのだ。

 以上のように考えるなら、松井珠理奈か小畑優奈かという二者択一は、問題の本質を見失わせる危険性がある。重要なのは、彼女たち個人の資質ではなく、グループ全体の在り方なのだ。センターポジションは、その在り方を端的に示す存在論的な意味を持っている。

 私たちは、このような意味の地平の中で、アイドルグループの在り方を捉え直す必要がある。それは、単なる人気やビジネスの問題ではなく、メンバーやファンの存在そのものに関わる問題なのだ。センターポジションをめぐる議論もまた、このような根源的な問いかけの中で捉え直されなければならない。

 SKE48のCDシングルのセンターポジションは、私たちに、アイドルの存在意義とは何かを問いかけている。それは、個人の力量を超えた、グループの在り方そのものを問い直す契機となるのだ。私たちは、この問いに真摯に向き合うことで、アイドル文化の新たな地平を切り拓くことができるのかもしれない。

 松井珠理奈と小畑優奈。二人の存在は、SKE48という世界の中で、固有の意味を持っている。私たちは、その意味を深く見つめることで、アイドルというものの本質に迫ることができるのだ。それは、ハイデガーが説いた「存在の真理」を探求する旅に他ならない。

松井珠理奈と小畑優奈とデリダ

 「SKE48のCDシングルのセンターポジション」をめぐる議論は、単なる人選の問題ではなく、より複雑な権力関係とアイデンティティの力学が働いていると解釈できる。

 まず、「センター」という概念そのものが、一種の「ロゴス中心主義」を体現している。デリダは、西洋の思想が「中心」や「起源」を特権化し、そこから周縁を規定するという構造を批判した。「センター」という位置は、グループ内の序列を規定し、メンバーを差異化する。松井珠理奈と小畑優奈の二項対立もまた、この中心主義的な思考の産物だと言えるだろう。

 また、松井珠理奈が体現する「エース」というアイデンティティは、彼女に特定の役割を付与し、その行動を規制する。野村氏との対談で語られた「エース論」は、リーダーシップや我慢強さといった資質を「エース」に要求する。しかし、デリダが指摘するように、こうしたアイデンティティは言説によって構築されるものであり、決して本質的なものではない。むしろ、「エース」というアイデンティティそのものが、特定の権力関係を反映しているのだ。

 一方で、小畑優奈のセンター起用は、この既存の権力構造を撹乱する契機となり得る。「エース」の座が揺らぐことで、グループ内の秩序が問い直される。しかし同時に、小畑もまた新たな「センター」として特権化され、権力関係に組み込まれていく危険性がある。デリダの「脱構築」の戦略は、こうした権力の移動や置換を露わにし、その構造そのものを問い直すことにある。

 ここで重要なのは、「センター」や「エース」といった概念を本質的なものと見なすのではなく、それらが言説によって構築される過程を明らかにすることだ。そうした脱構築の実践を通して、私たちはアイドルグループ内の権力関係を問い直し、新たな可能性を切り拓くことができる。

 例えば、「センター」の座を固定化するのではなく、状況に応じて柔軟に変更していくことで、メンバー間の多様性や可能性を引き出すことができるかもしれない。また、「エース」というアイデンティティに縛られずに、各メンバーの個性を尊重する関係性を構築することも可能だろう。

 SKE48のセンターポジションをめぐる議論は、アイドルグループにおける権力とアイデンティティの問題を考察する上で、格好の素材となる。そこには、「中心」や「エース」といった概念の持つ権力性と、その権力に抗う契機が同居している。「センター」という位置に佇みつつ、それが構築される過程を解き明かすこと。それこそが、デリダの思想がこの問題に投げかける問いなのかもしれない。私たちに求められるのは、既存の秩序を無批判に受け入れるのではなく、絶えずその権力性を問い直し、新たな関係性の可能性を探究していくことなのだ。

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