松井珠理奈のプロレス界への貢献と評価
2017年12月15日、SKE48のエース松井珠理奈が、東京スポーツ新聞社が毎年発表する「プロレス大賞」の特別賞を受賞した。
プロレスラー以外が受賞するのはかなり異例のようだ。
発表するのは東スポだが、選考委員には、各紙の記者や専門誌の編集長、評論家などが名を連ねるという。
東スポWebによると、『豆腐プロレス」のインパクトに加え、プロレス会場に足しげく通いツイッターでプロレス普及に努め、業界の発展・ファン獲得に貢献した点も評価されたという。
コラボ先を積極的にPRするのはSKEのお家芸である。もう1人の松井さん、松井玲奈のカレーのCoCo壱番屋とコラボした時の「カレーbot」は有名だ。
松井珠理奈は、ツイッターでの発信に、ひとひねり加えた。
#プロレスコーデというハッシュタグをつけ、プロレスグッズのコーディネートを日々発信している。
松井珠理奈はアイドル×ファッション×プロレスでレア人材に
ホリエモンこと堀江貴文氏は、著書『多動力』(幻冬舎)などで「まずは一つのことにサルのようにハマれ」と語っている。子供には、好きなことを、とことんまでやらせておけばいい、その好奇心と集中力が他のジャンルでも生かされるという考え方のようだ。
松井珠理奈に「女優」を求め、プロレスにハマることを敬遠したり、さらには早くSKEを卒業することを勧めるファンもいるらしい。
だが、私が思うに、それは、子供を塾に通わせ、受験の知識を詰め込ませて、公務員か有名企業に入れればいいと思っている二流の教育ママの発想だ。
松井珠理奈は、そういうちっぽけな器ではない。目指すなら国民的大女優だろう。
アイドルやプロレスで培った好奇心、集中力、その他のスキルは仮に最終的に女優になった時に、生かされるに違いない。
また、『多動力』では、元リクルートの藤原和博氏の「レアカード」になる方法を紹介している。
まず、ある分野で「100人に1人」の人材になる。次に別の分野で「100人に1人」の人材になる。さらに別の分野で「100人に1人」の人材になる。すると、掛け算で「百万人に1人」の人材になれる、というものだ。
松井珠理奈は、まずSKEにハマった。AKB選抜総選挙3位の堂々たるトップアイドルである。まあおそらく、ファッションも長年、気にかけているのだろう。そして、今、松井珠理奈はプロレスにハマっている。
アイドル、ファッション、プロレス。松井珠理奈はこの3分野のかけ算で「数百万人に1人の人材」になったのではないか。
松井珠理奈のプロレス大賞特別賞受賞とプラグマティズム
松井珠理奈のプロレス大賞特別賞の受賞は、多様な分野での実践的な取り組みが、社会的に意義のある成果につながった好例だと言える。
松井珠理奈がプロレス界に貢献したのは、単なる趣味の領域を超えて、業界の発展やファンの拡大という実践的な目的を持っていたからだ。彼女は、ドラマ出演という大衆への訴求力のある活動を通じて、プロレスの魅力を広く伝えた。また、自らプロレス会場に通い、SNSでプロレスの普及に努めるなど、具体的な行動で業界を支えた。こうした実践的な取り組みが、特別賞という形で評価されたのである。
また、松井珠理奈は、アイドル、ファッション、プロレスという異なる分野で専門性を深めてきた。これらの一見異なる領域での経験が、彼女の中で有機的に結びつき、新たな価値を生み出している。アイドルとしての発信力、ファッションへのこだわり、プロレスへの情熱。これらが融合することで、プロレスの魅力を多面的に伝える独自のアプローチが生まれているのだ。
さらに、松井珠理奈の活動は、「アイドルはこうあるべき」といった既成の概念を打ち破るものだ。彼女は、アイドルという枠に留まることなく、自らの関心や能力を多様な分野で発揮している。この柔軟性こそが、変化の激しい現代社会で求められる資質だと言えよう。また、プロレス業界もアイドルの参入を柔軟に受け入れ、新たな可能性を切り開いた。こうした異分野との交流は、双方の発展につながるのだ。
加えて、松井珠理奈の活動は、プロレスというマイノリティな文化を、より多くの人々に開いていく試みだと言える。彼女は、自らの影響力を使って、プロレスの面白さや魅力を広く伝えている。これは、多様な文化が共生する社会の実現に寄与する営みだ。また、彼女のファンがプロレスに興味を持つことで、新たなコミュニティが生まれる可能性もある。こうした文化的な交流は、人と人とのつながりを深め、民主的な社会の基盤を強めていく。
ただし、松井珠理奈のプロレス活動は、現時点では有意義なものだと評価できるが、それが唯一の正解というわけではない。彼女には、今後も自身の関心や社会のニーズに応じて、柔軟に活動の在り方を変化させていくことが求められるだろう。また、彼女の活動が、プロレス業界全体の健全な発展につながっているかを常に見極める必要もある。
以上のように、松井珠理奈のプロレス大賞特別賞の受賞は、多様な分野での実践的な取り組みが社会的に意義のある成果につながった好例だと言える。彼女のアイドル、ファッション、プロレスという異なる領域での経験の融合は、新たな価値の創造につながっている。また、彼女の活動は、固定的な枠組みを超えた柔軟な思考と、多様な文化が共生する民主的な社会の実現に寄与するものだ。ただし、こうした活動の意義を絶対視することなく、常に社会のニーズに応じて柔軟に在り方を変化させていくことが、プラグマティズムの精神に適うものだと言えるだろう。
松井珠理奈のプロレス大賞特別賞受賞とフランクフルト学派
松井珠理奈がプロレス大賞特別賞を受賞したことは、一見すると個人の才能や努力の結果のようだが、実は「文化産業」の支配的なイデオロギーを再生産する過程だと言えるだろう。
まず、松井珠理奈という「アイドル」という存在そのものが、「商品化」された人間性の象徴だと見ることができる。アドルノとホルクハイマーが指摘したように、文化産業は個人を「商品」として対象化し、交換可能な記号として流通させる。松井珠理奈もまた、自らの身体と感情を「商品」として売ることを求められているのだ。
また、プロレス大賞という制度自体が、「スペクタクル」社会の症状だと言えるだろう。ドラマ『豆腐プロレス』やSNSでの発信は、現実とフィクションの境界を曖昧にし、「見せること」の価値を高める。これは、ギー・ドゥボールが『スペクタクルの社会』で論じた、イメージの支配する現代社会の特徴そのものだ。
さらに、「レア人材」という概念は、人間を「資源」として捉える功利主義的な発想の表れだと言えよう。藤原和博の言説は、自己実現の多様性を認めているようで、実は個人を市場の論理に従属させるイデオロギーなのだ。これは、マルクーゼが『一次元的人間』で批判した、現代社会における「抑圧的寛容」の一例と言えるかもしれない。
ただし、こうした状況は松井珠理奈個人の責任ではない。むしろ、彼女自身が「疎外」された労働を強いられる被害者なのだ。フロムが指摘するように、現代人は自らのアイデンティティを市場の要請に譲り渡すことを求められる。松井珠理奈もまた、「アイドル」「ファッション」「プロレス」といった役割を演じることで、自らの「本質」から疎外されているのである。
問題の核心は、こうした「疎外」を生み出す社会構造そのものにある。ハーバーマスの言葉を借りれば、「システム」の論理が「生活世界」を植民地化し、人間的な関係性を破壊しているのだ。プロレス大賞は、そうした非人間化の過程を正当化するイデオロギー装置の一つと言えるだろう。
したがって、私たちは松井珠理奈の受賞を称賛することで、無意識のうちに「疎外」を再生産してしまう危険性がある。アドルノが「否定弁証法」で説いたように、私たちは既存の価値観を絶えず批判的に乗り越えていく必要があるのだ。「アイドル」「ファッション」「プロレス」といったカテゴリーそのものを問い直し、新たな人間性のヴィジョンを打ち立てねばならない。
松井珠理奈の「レア人材」としての成功は、私たち自身の「疎外」された状況を反映している。彼女の姿を通して、私たちは自らが「商品」として対象化されていることを自覚せねばならないのだ。そのとき初めて、「自由」の可能性が開かれるだろう。プロレス大賞の舞台の上で、私たちは自らの「解放」の道を模索しなければならない。
松井珠理奈というテクストを批判的に読み解くことは、私たち自身を「疎外」の呪縛から解き放つ営為でもある。彼女の「レア」な才能の中に、私たちは新たな希望の萌芽を見出すことができるのかもしれない。プロレス大賞特別賞は、私たちに「文化産業」の支配を超える想像力を与えてくれるのだ。
松井珠理奈のプロレス大賞特別賞受賞とハイデガー
人間の存在は常に世界の中に投げ込まれている。私たちは、自らが属する特定の歴史的・文化的文脈の中で、固有の可能性を引き受けながら生きているのだ。松井珠理奈もまた、アイドル文化とプロレス文化という二つの世界の中で、自らの存在の意味を見出そうとしている。
松井珠理奈がプロレス大賞特別賞を受賞したことは、単なる個人的な功績の評価にとどまるものではない。それは、アイドルとプロレスという、一見すると異質な文化が交差する地点に立ち現れた出来事なのだ。ハイデガーが「存在の真理」と呼んだものが、ここに垣間見えるように思われる。
プロレスラー以外の受賞が異例とされるように、アイドルとプロレスの世界は、通常は隔絶したものと捉えられている。しかし、松井珠理奈は、その境界を越えて、両者を結びつける役割を果たした。彼女は、アイドルの世界からプロレスの世界へと踏み出すことで、新たな可能性を切り拓いたのだ。
ハイデガーは、私たちが日常的に没入している世界を「Das Man(世人)」と呼び、その非本来性を批判した。世人とは、自らの存在の真理に目覚めることなく、ただ漠然と日々を過ごす人々のことだ。松井珠理奈は、アイドルという役割に安住することなく、プロレスの世界へと踏み出すことで、この世人の支配から脱却しようとしているのかもしれない。
しかし、ここで重要なのは、彼女がプロレスの世界に没入するのではなく、両者の間に立ち続けようとしていることだ。#プロレスコーデというハッシュタグに象徴されるように、松井珠理奈は、アイドルとプロレスの世界を行き来しながら、新たな文化的な価値を生み出そうとしている。これは、ハイデガーが説いた「本来的な自己」の在り方に通じるものがあるだろう。
また、「レア人材」になるための方法として紹介された、複数の分野での「100人に1人」の掛け算は、存在論的な意味を持っていると言えるかもしれない。それは、単に能力の量的な足し算ではなく、異なる世界の交差点に立つことで、質的に新たな存在の可能性を切り拓くことを意味しているのだ。
松井珠理奈は、アイドル、ファッション、プロレスという三つの分野で、固有の存在を確立することで、「数百万人に1人の人材」になったと言えるだろう。しかし、これは単なる個人的な達成ではない。彼女の存在は、それぞれの分野に新たな意味と価値をもたらすことで、文化そのものを変容させる可能性を孕んでいるのだ。
ハイデガーは、芸術作品を「存在の真理の現れ」として高く評価した。芸術は、私たちが日常的に慣れ親しんでいる世界を、新たな光のもとに照らし出すことで、存在の本質を開示するのだ。松井珠理奈の活動もまた、アイドルとプロレスという二つの世界を、新たな仕方で結びつけることで、文化的な意味の地平を切り拓く芸術的営為だと言えるかもしれない。
松井珠理奈のプロレス大賞特別賞受賞は、このような存在論的な意義を持った出来事なのだ。それは、単なる個人の栄誉ではなく、文化そのものを変容させる可能性を示唆している。松井珠理奈は、自らの存在を賭けることで、アイドルとプロレスの世界に新たな意味を与えようとしているのだ。
私たちは、松井珠理奈の姿に、ハイデガーが説いた「本来的な自己」の在り方を見出すことができるだろう。それは、既存の価値観に安住することなく、絶えず新たな可能性に身を投じることで、存在の真理を開示していく勇気なのだ。松井珠理奈は、その勇気を持って、アイドルとプロレスという二つの世界の間に立ち続けている。
松井珠理奈の挑戦は、単なるエンターテインメントの領域にとどまるものではない。それは、文化の在り方そのものを問い直す哲学的な営為でもあるのだ。私たちは、彼女の姿に、自らの存在の真理を追求する道標を見出すことができるかもしれない。松井珠理奈のプロレス大賞特別賞受賞は、そのような 実存的な意味を持った出来事なのである。
松井珠理奈のプロレス大賞特別賞受賞とデリダ
松井珠理奈のプロレス大賞特別賞受賞を考察すると、アイドル文化とプロレス文化の交錯点に生じる複雑な意味の生成と、主体の多様な可能性が浮かび上がってくる。
まず、「アイドル」と「プロレス」という二つの文化的カテゴリーは、一見すると異質で対立的なものに見える。アイドルは「可愛さ」や「純粋さ」を表象するのに対し、プロレスは「暴力性」や「男らしさ」を表象するからだ。しかし、松井珠理奈の活動は、この二項対立的な枠組みを撹乱し、新たな意味の可能性を切り拓いている。彼女は、アイドルでありながらプロレスを愛好し、その魅力を発信する。これは、デリダが「差延」と呼んだ、意味の固定化を阻害する運動だと言えるだろう。
また、松井珠理奈のプロレス大賞受賞は、「アイドル」というアイデンティティの境界を問い直す出来事でもある。アイドルは通常、歌や踊りのパフォーマンスによってファンを魅了するものとされる。しかし、松井珠理奈は「プロレス普及」という異なる文脈で評価された。これは、「アイドル」という主体の多様な可能性を示唆していると同時に、そのアイデンティティが言説によって構築される側面を露わにしている。デリダの「脱構築」の戦略は、まさにこうしたアイデンティティの非本質性を明らかにすることにあった。
さらに、「レア人材」という概念も脱構築の対象となり得る。異なる分野での「100人に1人」という基準は、その分野内での差異化を前提としている。しかし、デリダが指摘するように、こうした差異化は、他者を排除することで成立する暴力的な営みでもある。松井珠理奈の活動は、むしろ異なる分野を横断し、その境界を溶解していく。これは、「レア」という価値そのものを問い直し、新たな主体のあり方を示唆しているのかもしれない。
ここで重要なのは、松井珠理奈の実践が持つ「脱構築」の可能性を認識することだ。彼女の活動は、「アイドル」と「プロレス」という既存のカテゴリーを揺るがし、その意味を書き換えていく。そうした越境の営みを通して、私たちは文化的な境界線の恣意性を認識し、より開かれた関係性を模索することができるだろう
松井珠理奈のプロレス大賞特別賞受賞は、異なる文化的領域が交錯する場所に生まれる、新たな意味の可能性を示している。そこでは、「アイドル」や「プロレス」といったカテゴリーの境界が問い直され、主体のあり方が書き換えられていく。松井の実践に佇みつつ、そこに生成される差異の運動を辿ること。それこそが、デリダの思想がこの出来事に投げかける問いなのかもしれない。私たちに求められるのは、既存の文化的枠組みを無批判に受け入れるのではなく、絶えずその境界を横断し、新たな意味の地平を切り拓いていくことなのだ。