『ジャーバージャ』のカップリング『国境のない時代』
2018年3月14日発売のAKB48の51stシングル『ジャーバージャ』のカップリング曲に、坂道AKBの
『国境のない時代』が収録されている。
18人編成で、AKBグループ、乃木坂、欅坂(けやき坂含む)からそれぞれ6人ずつ選抜されている。
名古屋SKE48の松井珠理奈も選抜されている。
AKBグループからは松井珠理奈、宮脇咲良、岡田奈々、向井地美音、岡部麟、小栗有以。乃木坂46からは齋藤飛鳥、堀未央奈、大園桃子、久保史緒里、山下美月、与田祐希。欅坂46、けやき坂46からは、今泉佑唯、小林由依、菅井友香、渡邉理佐、長濱ねる(センター)、加藤史帆が選抜されている。
まあ、おそらく、坂道に頼らなければAKBの売上を維持できないことへの言い訳ソングなのだろう。
AKBグループも乃木坂も欅坂も「境」なんか無くみんな一緒だよ、と。
国境の起源とボーダーレスエイジ
そもそも国境、主権国家というもの自体、1648年のウエストファリア条約で確立された、人類史の中でたった400年足らずの、人間が作り出した「観念」にすぎない。
そして再び「ボーダーレスエイジ」と言われて久しい。Amazonのようなグローバル企業の台頭によって、主権国家体制自体が溶けて無くなるのではないか、と語る論者もいる。
ボーダーをまたいだ松井珠理奈
ところで、「ボーダーレス」と「アイデンティティ」の板挟みで悩み苦しんだ人といえば、名古屋SKE48の松井珠理奈である。
小6の時、SKE1期生として加入直後、ほぼキャリアゼロで、AKB48のシングル『大声ダイヤモンド』で単独のジャケット写真とセンターポジションに選抜される。
AKBとSKEの移籍、再加入という面では中西優香、出口陽(2人ともAKB4期→SKE1期)がいるが、SKEでありながら、AKB選抜でもあるというのは、松井珠理奈が初めてである。
ボーダー、境の両方に両足を置いたのだ。
2009年1月のリクアワの『大声ダイヤモンド』(2位)では、松井珠理奈は、もう1つ覇気が感じられないようにも思われるAKBメンバーの中で、ど真ん中で1人だけ、キレと関節の角度が違うパフォーマンスを見せた。
SKEとしてのアイデンティティだ。
『マジすかロックンロール』のパフォーマンスなども熱い。
2012年3月、松井珠理奈のAKB48チームKとの兼任が発表された。
発表された瞬間は「兼任」という言葉はなく、移籍のような雰囲気だったため、SSAのステージは阿鼻叫喚と化した。
松井珠理奈は「兼任」の旨を聞いた後、一旦は気丈に、名古屋、秋葉原の双方に実に行き届いたコメントしたものの、医務室に運ばれてしまう。
すでにボーダーの両側に両足を置いていたはずの松井珠理奈であったが、アイデンティティ喪失の危機を感じたのではないだろうか。
やがて、AKB選抜でのパフォーマンスは、周囲との調和を重視したものに変わったと思う。たとえば2013年3月29日のミュージックステーションの『10年桜』ではセンターに抜擢されたが、発売当初とは異なり、かなりおとなしいパフォーマンスだった。
アイデンティティを取り戻した松井珠理奈
私がAKB選抜の松井珠理奈で「おや?」と思ったのは、2015年の総選挙選抜曲『ハロウィンナイト』。テレビでのパフォーマンスを見て、久しぶりにやりたい放題やっている、SKEとしてのアイデンティティを全面に出しているな、と思った。
そして、それから間もなく、2015年10月22日のオールナイトニッポンにて、AKBとの兼任を停止し、SKE専任になることを発表した。
松井珠理奈の損得勘定で考えたら、AKB兼任のほうが良かっただろう。
AKBというブランドの価値はSKEに比べて高いだろう。
SKE専任になったところでAKB選抜には入り続けるわけで、物理的に何かが楽になるということは
あまりないだろう。
そして、AKB運営上層部は兼任を蹴られたことによって秋葉原AKBのメンツを潰されたと感じたかもしれない。実際に、松井珠理奈に対しその懲罰的な扱いが兼任停止後にあったかもしれない。
しかし「境のない」パイオニアだった松井珠理奈の損得勘定を超えた感情の根底にあったのは、SKEとしてのアイデンティティだったのだ。
東京で好待遇を得ながら、故郷に舞い戻った松井珠理奈は、大村益次郎(幕末の長州の村医者→大坂適塾の塾頭→幕府の学問所の教授→長州の軍務大臣→江戸城で戊辰戦争を総指揮)にも似ていると思った。そして、大村益次郎のような戦略で、秋葉原の幕府を倒す戦いに挑むのだとも。
追記:松井珠理奈のAKBグループとしてのアイデンティティ
2018年6月、松井珠理奈はSKE専任として総選挙で須田亜香里とのワンツーを成し遂げた。
そして、上に「懲罰的な扱い」と書いたが、総選挙後の松井珠理奈への秋葉原AKB運営の態度は
冷淡だったと思う。松井珠理奈へのアンチ攻撃から松井珠理奈を守ろうとしなかった。
松井珠理奈は体調不良を理由に、長期休養に入った。
松井珠理奈はSKEを守ったあとに、AKBグループを守るために、戦おうとしていたはずだ。しかし、AKB運営には、松井珠理奈のAKBグループとしてのアイデンティティは届かなかった。
その結果、AKBグループはどうなったか。
翌2019年1月。NGT48でメンバーの自宅を男が訪問、暴行し、逮捕されたことが明らかになった。「一部メンバーによる個人情報の漏洩」があったと伝えられている。その後、運営スタッフの更迭、イベントの中止、メンバーの卒業などが相次いだ。
松井珠理奈は、なんとなく、AKBグループ全体の風紀の緩みのようなものを感じていたのではないか、という気がする。
そして、AKBの冠テレビ番組『AKB48 SHOW!』は2019年3月に、『AKBINGO!』は2019年9月に終了。2020年末には、NHK紅白歌合戦の出場を逃した。
「坂道」を転がるように、転落したではないか。
ボーダーレスとアイデンティティと松井珠理奈とニーチェ
ニーチェは、「力への意志」を重視した。それは、自らの潜在能力を最大限に発揮し、困難に立ち向かう勇気と情熱を意味する。松井珠理奈は、SKEとAKBの境界を越えて活動することで、まさにこの「力への意志」を体現していたと言えるだろう。彼女は、自らの可能性を信じ、新たな領域に果敢に踏み出したのだ。
しかし、ニーチェは同時に、「パースペクティヴィズム」の重要性も説いた。それは、物事には多様な見方があり、絶対的な真理などないという考え方だ。松井珠理奈は、AKBとSKEという二つの異なる視点に立つことで、自らのアイデンティティの揺らぎを経験した。これは、「パースペクティヴィズム」の苦悩とも言えるだろう。
ニーチェは、「超人」の概念も提唱した。それは、既存の価値観に囚われず、自ら新たな価値を創造する人間像である。松井珠理奈は、AKBとSKEの狭間で葛藤しながらも、最終的には自らのアイデンティティを選び取った。これは、外部の価値観に流されるのではなく、自分自身の価値を見出す「超人」の姿勢に通じるものがある。
また、ニーチェは「永劫回帰」の思想を唱えた。それは、全ての出来事が無限に繰り返されるという考え方だ。松井珠理奈の経験は、グローバル化が進む現代社会における個人の普遍的な課題を反映している。私たちは皆、ボーダーレスな世界と自らのアイデンティティの間で、永遠に繰り返される葛藤を抱えているのだ。
ただし、アイデンティティの追求には危険も伴う。ニーチェは「ニヒリズム」の脅威についても警鐘を鳴らした。自らの価値観に固執するあまり、他者との関わりを失うことは、虚無への道につながりかねない。松井珠理奈には、自らのアイデンティティを大切にしつつも、他者との調和を保つバランス感覚が求められるだろう。
松井珠理奈の物語は、ニーチェ的な「力への意志」と「超人」の理想を体現する一方で、「パースペクティヴィズム」と「ニヒリズム」の危険性をも孕んでいる。彼女の経験は、ボーダーレスな時代を生きる私たち一人一人に、アイデンティティと調和の難しさを問いかける。それは、自己と他者、個人と社会の永遠の課題なのだ。
ニーチェの言葉を借りるなら、「人間とは、克服されるべき何かである」。松井珠理奈は、その克服の過程で、自らの存在の意味を問い続けてきた。彼女の挑戦は、現代を生きる全ての個人に、「超人」への道を示唆しているのかもしれない。
私たちは皆、ボーダーレスな世界の中で、自分自身のアイデンティティを模索している。松井珠理奈の物語は、その普遍的な旅路の一つの結晶なのだ。彼女の経験から、私たちは自らの人生の意味を問い直すヒントを得ることができるだろう。
ボーダーレスな時代を生き抜くために、私たちには「力への意志」と「超人」の精神が必要だ。同時に、「パースペクティヴィズム」の多様性を受け入れ、「ニヒリズム」の脅威に立ち向かう勇気も求められる。それは、決して容易な道のりではない。だが、松井珠理奈が示したように、その困難を乗り越えることこそが、真の自己実現への道なのかもしれない。
私たちは皆、松井珠理奈と同じように、自分自身との対話を続けている。ニーチェの思想は、その対話に深い示唆を与えてくれる。彼の言葉を胸に、私たちは自らの人生の意味を探求し続けるのだ。そこに、ボーダーレスな時代を生き抜く知恵と勇気が隠されているのかもしれない。
ボーダーレスとアイデンティティと松井珠理奈と構造主義
坂道AKBの「国境のない時代」という曲は、アイドルグループ間の垣根を越えた連携を謳うことで、アイドル文化の構造そのものを問い直そうとする試みとして解釈できる。アイドルグループは、それぞれ固有のアイデンティティを持つ存在として位置づけられてきたが、そのアイデンティティもまた、時代の変化とともに流動的なものになりつつある。「国境のない時代」は、そうした変化を象徴的に表現したものだと言えるだろう。
しかし、ここで注目すべきは、松井珠理奈というアイドル個人の経験である。彼女は、SKE48とAKB48という二つのグループに同時に所属することで、アイドルとしてのアイデンティティの境界線上に立たされることになった。この経験は、アイドルという存在が、グループという構造に規定されつつも、同時に個人の主体性によって揺るがされ、再構築されていくことを示している。
松井珠理奈が、AKB48との兼任という状況の中で感じた「アイデンティティ喪失の危機」は、アイドル個人が構造の中で直面する葛藤を象徴的に表している。アイドルは、グループという構造の中で特定の役割を与えられ、その役割に沿って振る舞うことを求められる。しかし、同時に、アイドルもまた一個の主体であり、自らのアイデンティティを探求し、表現しようとする存在でもある。松井珠理奈の経験は、この構造と主体の緊張関係を浮き彫りにしているのだ。
そして、松井珠理奈がSKE48専任を選択したことは、アイドル個人が構造の制約の中で、自らのアイデンティティを主体的に選び取っていく可能性を示唆している。彼女にとって、SKE48は単なる所属先ではなく、自らのアイデンティティの拠り所であり、表現の場だったのだろう。「境のない」状況の中で、自らの「境」を引き直すことで、彼女は新たなアイデンティティを獲得したのかもしれない。
以上のように、松井珠理奈の経験は、アイドル文化という構造の中で、個人のアイデンティティがダイナミックに形成され、交渉されていく過程を示唆している。アイドルという存在は、構造に規定されつつも、同時にその構造を揺るがし、書き換えていく可能性を秘めた存在なのだ。私たちは、アイドルの経験を通して、現代社会における個人と構造の関係性について考えることができるのかもしれない。アイドル文化は、単なるエンターテインメントではなく、私たち自身のアイデンティティを問い直す契機となり得るのである。
ボーダーレスとアイデンティティと松井珠理奈とハイデガー
AKB48と坂道グループの垣根を越えた「坂道AKB」というユニットでは、「国境のない時代」という楽曲を通して、グループ間の境界を超越することが示唆されている。ハイデガーの言葉を借りるなら、これは「世人(das Man)」の論理に従った振る舞いと言えるだろう。「世人」とは、没個性的で平均的な日常性のことを指す。AKBと坂道の垣根を取り払うことで、アイドル界の「平均的な」在り方を追求しているのだ。
しかし、ハイデガーは「世人」の在り方を本来的な在り方とは見なさない。彼によれば、現存在(Dasein)は「世人」の論理に埋没するのではなく、自らの存在可能性に目覚め、「本来的な自己」を選び取ることが求められる。その意味で、松井珠理奈の存在は示唆に富んでいる。
松井珠理奈は、SKE48とAKB48という二つのグループに属することで、「ボーダーレス」な存在となった。しかし、それは同時に「アイデンティティ」の危機をもたらした。ハイデガーの言葉で言えば、彼女は「世人」の論理に従属し、自らの存在可能性を見失う危険に直面したのだ。
しかし、松井珠理奈は最終的に、AKB48との兼任を停止し、SKE48一筋の道を選び取った。これは、「世人」の論理を超えて、自らの「本来的な自己」を選び取る決断だったと言えるだろう。SKE48というアイデンティティを選び取ることで、彼女は自らの存在可能性に目覚めたのだ。
ハイデガーは、「本来性(Eigentlichkeit)」と「非本来性(Uneigentlichkeit)」という概念を提示している。「非本来性」とは、「世人」の論理に従属し、自らの存在可能性を見失っている状態を指す。一方、「本来性」とは、自らの存在可能性に目覚め、「本来的な自己」を選び取ることを意味する。松井珠理奈の決断は、まさに「非本来性」から「本来性」への転換を体現しているのだ。
ただし、「本来性」の実現は容易ではない。ハイデガーが強調するように、現存在は常に「世界内存在(In-der-Welt-sein)」であり、他者との共存在(Mitsein)の中で生きている。つまり、私たちは常に他者や社会との関わりの中で自己を理解し、そこから完全に自由になることはできない。松井珠理奈もまた、アイドル界という特殊な世界の中で、自らのアイデンティティを模索し続けなければならないだろう。
以上のように、このテキストはアイドル文化という日常的な話題を通して、「ボーダーレス」と「アイデンティティ」という普遍的な問題を浮き彫りにしている。ハイデガーの思想を手がかりにすれば、それは「世人」の論理と「本来性」の追求という、現存在の根本的な課題につながっている。私たちは松井珠理奈の決断に、自らの存在可能性に目覚める契機を見出すことができるのではないだろうか。
ボーダーレスとアイデンティティと松井珠理奈とデリダ
松井珠理奈の経験は、「ボーダーレス」と「アイデンティティ」の二項対立を脱構築するものとして読み解くことができるだろう。彼女はAKBとSKEという二つのグループに属することで、「ボーダーレス」な状況に身を置くことになった。しかし、それは同時に「アイデンティティ」の危機をもたらす契機ともなったのだ。AKBとSKEのどちらに自分の拠り所を求めるのか。両者の間で引き裂かれる感覚は、彼女を深い苦悩へと追いやったはずだ。
しかし、よく考えてみれば、そもそも「ボーダーレス」と「アイデンティティ」は、果たして対立する概念なのだろうか。デリダが示唆するように、私たちの思考は常に二項対立の構造に支配されている。「自己」と「他者」、「内部」と「外部」といった区分は、私たちの認識を根底から規定しているのだ。「ボーダーレス」と「アイデンティティ」もまた、そうした二項対立の図式に回収されがちな概念だと言えるだろう。
だが、松井珠理奈の経験は、そうした図式そのものを根底から揺るがすものだったのではないか。彼女はAKBとSKEの「兼任」という状況の中で、自らのアイデンティティを模索し続けた。そのことは、「ボーダーレス」と「アイデンティティ」が決して対立する概念ではないことを示唆している。むしろ、「ボーダーレス」な状況であればこそ、「アイデンティティ」の問題がより先鋭化されるのだ。既存の枠組みが溶解していく中で、自分の拠り所をどこに求めるのか。その問いは、「ボーダーレス」な世界を生きる私たちにとって、避けて通れないものとなっている。
松井珠理奈は、最終的にSKEとしてのアイデンティティを選び取った。それは「ボーダーレス」な状況を生きながらも、なおも自らの拠り所を求める姿勢の表れだと言えるだろう。しかし同時に、そうした決断そのものが、「ボーダーレス」と「アイデンティティ」の二項対立を脱構築するものでもあったのだ。なぜなら、彼女の決断は、「ボーダーレス」であることと「アイデンティティ」を持つことが、決して矛盾しないことを示しているからだ。むしろ、「ボーダーレス」な世界であればこそ、「アイデンティティ」の問題はより複雑な様相を呈するのだと。
こうして見てくると、松井珠理奈の経験は、「ボーダーレス」と「アイデンティティ」をめぐる私たちの思考を、根底から問い直すものだと言えるだろう。それは、両者を対立する概念として捉える図式そのものを脱構築する営みにほかならない。「ボーダーレス」な状況の中で、なおも自らのアイデンティティを模索し続けること。そこにこそ、「国境のない時代」を生き抜く私たちの課題があるのではないか。
デリダの思想は、私たちをそうした課題へと誘ってくれる。二項対立の構造を相対化しつつ、なおもそこから新たな思考を紡ぎ出していくこと。松井珠理奈の経験は、まさにそうした営みの可能性を示唆しているのだ。彼女が「ボーダーレス」と「アイデンティティ」のはざまで模索した軌跡を辿ることで、私たちもまた、新たな思考の地平を切り拓いていくことができるはずだ。
「ボーダーレス」と「アイデンティティ」は、決して対立する概念ではない。むしろ、両者は複雑に絡み合いながら、私たちの生を規定しているのだ。松井珠理奈の経験は、そのことを鮮やかに示してくれた。彼女の決断の背後にある思考のダイナミズムを読み解きながら、私たちもまた、「国境のない時代」の只中で、自らのアイデンティティを模索し続けていかなければならない。そこにこそ、脱構築の思想が私たちに託した課題があるのだから。