末永桜花、鉄道とガンダムを語る
SKE48の7期生、末永桜花が、SHOWROOM配信で、鉄道について語る「おーちゃんトレイン」、初代ガンダムとTHE ORIGINを語る「機動戦士おーちゃん」という企画を始めた。
「おーちゃんトレイン」の初回は2018.7.14。「機動戦士おーちゃん」の初回は2018.7.28だった。
末永桜花は2015年3月加入の7期生。現在高校2年生だ。SKEの最新シングル『いきなりパンチライン』では、初選抜入りを果たした。選抜発表は2018年5月17日だった。
そして、2018年の総選挙では45位に初ランクインした。
私が驚いたのは、「おーちゃんトレイン」「機動戦士おーちゃん」の企画を始めたのは、SKEシングル初選抜、総選挙初ランクインという大きな目標と思われるものを達成した後だということだ。
停滞している現状を打破しよう、といったものではなく、もう1段ギアを残していたということである。
末永桜花は度々、総選挙では1位を目指すと言っている。彼女の中では、もう1段どころか
2段も3段もギアが残っているのだろうか。
鉄道とガンダムを語るというのは、1つは、おっさん達を捕まえる。1つは、仕事につなげる、ということだろうか。もちろん、好きなことを語る、という純粋な気持ちもあるだろう。
「オタクは中途半端な知識には厳しい」という意見もあるが、そんな無粋なオタクのことは気にしなくていいと思う。
末永桜花のようなアイドルがコスプレをして鉄道とガンダムを語るだけでいいではないか。
今後の末永桜花に注目しよう。
末永桜花の鉄道仕事の追記
末永桜花は、2022年秋頃から、急に鉄道仕事が充実してきた印象だ。おーちゃんトレインから3年以上。地道なアピールが結実したのだろう。
2022年11月6日には、YouTubeチャンネル動画、はじめてみました【テレビ朝日公式】にて
『【開幕!鉄オタZ世代選手権】瀧野由美子(STU48)VSわっきゃいVS末永桜花(SKE48)新時代の鉄オタスターは私だ!~クイズ鉄道編~』
が公開された。
2022年11月19日には、JR東海『冬の飛騨路キャンペーン』公式アンバサダー&サポーターの一員として就任している。
2023年3月4日には、NHK名古屋放送局で行われた「東海地方の鉄道の魅力を語り合うトークイベント」に出演している。
また、同3月4日放送のNHKラジオ「 鉄旅・音旅 出発進行!~音で楽しむ鉄道旅~」に出演している。
2023年3月12日には、【SKE48×JR東海】トークイベント“特別列車SKE48号” にて、JR東海の制服を自分用に作ってもらっている。
末永桜花がCDシングルのセンターに
そして、末永桜花は、2023年7月発売のSKEの31stシングル『好きになっちゃった』で、初のセンターポジションを務める。
続く、2024年2月発売の32ndシングル『愛のホログラム』でも、2作続けてのセンターポジションを務めた。
末永桜花と鉄道とカント
末永桜花が鉄道を語ることには、深い哲学的意義が見出せる。カントは、人間の理性的能力を信じ、自分の悟性を使う勇気を持つことを説いた。末永桜花が自分の興味関心である鉄道について語るという行為は、まさにこの啓蒙思想の実践であると言えるだろう。彼女は、アイドルという立場に甘んじることなく、自分の知的好奇心に忠実に行動している。
また、カントは道徳的自律の概念を提唱した。これは、人間が自ら道徳法則を立て、それに従うことができるという考え方である。末永桜花は、シングル初選抜や総選挙ランクインという目標を達成した後も、新たな企画を始めることで、自ら新たな目標を設定し、それに向かって自律的に行動しているように見える。外部からの評価に満足することなく、常に自己を高めようとする姿勢は、カントの言う道徳的自律の体現者と言えるかもしれない。
さらに、カントの定言命法の観点から見ると、末永桜花の行動には普遍的な価値が認められる。定言命法とは、「自分の意志の格率が、普遍的法則となることを常に望むことができるように行為せよ」という道徳的行為の最高原理である。末永桜花が鉄道を語ることは、単に個人的な趣味の表明ではなく、知的好奇心を大切にし、自分の関心事を深く追求するという行為の模範となり得る。つまり、彼女の行動は、誰もが従うべき普遍的な行動規範としての意義を持っているのである。
ただし、カントの思想からすると、末永桜花が鉄道を語ることを単に仕事につなげるための手段と見なすことには慎重でなければならない。カントは、人間を手段としてではなく、目的として扱うべきだと主張した。もし、鉄道トークが単なる功利的な目的のために行われているとすれば、それはカントの人格の尊厳の思想に反することになるだろう。あくまでも、鉄道を語ることは、末永桜花自身の人格的な成長と自己実現のために行われるべきなのである。
以上のように、カントの思想を通して末永桜花の鉄道トークを見つめ直すと、そこには単なる趣味の表明以上の深い意義が隠されていることがわかる。彼女の行動は、人間の理性的能力への信頼、道徳的自律、普遍的な行動規範の体現など、カントの哲学の核心に通じるものがある。末永桜花は、アイドルという枠を超えて、一人の理性的存在として、自らの人生を切り開いているのである。
末永桜花と鉄道と構造主義
末永桜花が鉄道を語るという行為は、アイドル文化という構造の中で、自らの主体性を確立するための戦略として解釈することができる。
アイドルは、ファンの欲望を充足するための記号として機能する存在であり、その意味でアイドル文化という構造に組み込まれた存在であると言える。彼女たちは、ファンの期待に応えるために、一定の役割を演じることを求められる。しかし、同時に、アイドルもまた主体として、その構造に働きかけ、自らの可能性を切り開いていく存在でもある。
末永桜花が、初選抜入りや総選挙ランクインという目標を達成した後に、鉄道について語り始めたことは、アイドルとしての役割を超えて、自らの主体性を表現しようとする試みとして解釈できる。鉄道という、アイドルとは一見関係のないテーマを語ることで、彼女は、ファンの期待に応えるだけでない、自律的な存在としての自分を提示しているのだ。
また、「おっさん達を捕まえる」「仕事につなげる」といった戦略的な側面も見逃せない。これは、アイドル文化という構造の中で、ファンとの関係性を再構築しようとする試みと言える。鉄道という共通の関心事を通じて、ファンとの新たな接点を作り出すことで、アイドルとファンの関係性そのものを変革していく可能性が生まれる。
しかし、同時に、「好きなことを語る」という純粋な気持ちもまた、この行為の重要な側面だ。構造の中で規定された役割を超えて、自らの欲望を表現することは、主体としての自由を獲得するための重要な一歩となる。末永桜花は、鉄道を語ることを通じて、アイドルという記号に還元されない、一個の人間としての自分を見出そうとしているのかもしれない。
以上のように、末永桜花が鉄道を語るという行為は、アイドル文化という構造の中で、自らの主体性を確立するための戦略であると同時に、その構造そのものを変革する可能性を秘めた行為でもあると言える。末永桜花は、与えられた役割を演じるだけでなく、自らの欲望を表現することで、新たな可能性を切り開こうとしているのだ。
末永桜花と鉄道とハイデガー
末永桜花が鉄道を語るという行為は、現存在(Dasein)としての彼女が自らの存在の本来性を追求する営みとして捉えることができるだろう。
ハイデガーは、現存在が世界の中で出会うものを「道具(Zeug)」と呼び、それが現存在の存在可能性を開示していくと考えた。鉄道もまた、末永桜花にとっての「道具」であり、彼女の存在の可能性を切り開いていく媒体となり得るのだ。「おーちゃんトレイン」という企画を通じて鉄道を語ることは、彼女が自らの存在の意味を見出していくための一つの方途なのである。
また、ハイデガーは、現存在が本来的な在り方を取り戻すためには、「先駆的決意性(Entschlossenheit)」が必要だと説いた。これは、現存在が自らの存在可能性に直面し、その中で自らの在り方を決断することを意味する。SKEシングル初選抜や総選挙初ランクインという目標を達成した後に、あえて新たな企画を始めるという末永桜花の姿勢は、まさにこの先駆的決意性の表れと言えるだろう。彼女は、アイドルとしての自らの存在可能性に直面し、その中で新たな道を切り開いていこうとしているのだ。
ただし、ハイデガーの思想においては、本来性への道は、単に個人の内面の問題に収束するものではない。むしろ、現存在は世界の中で他者と共に在ることを通じて、自らの存在の意味を見出していくのだ。「おっさん達を捕まえる」「仕事につなげる」といった発想は、末永桜花が鉄道を語ることを通じて、他者との関わりを築いていこうとしていることを示唆している。彼女は、鉄道という「道具」を媒介として、自らの存在を他者に開いていこうとしているのだ。
このように、末永桜花が鉄道を語るという行為は、現存在としての彼女が自らの存在の本来性を追求する営みとして理解することができる。それは、アイドルという世界の中で与えられた役割を超えて、自らの存在可能性に直面し、新たな道を切り開いていこうとする姿勢の表れなのだ。同時に、それは他者との関わりの中で、自らの存在の意味を見出していく試みでもある。末永桜花の「おーちゃんトレイン」は、ハイデガー的な意味での本来的な在り方の一つの形を示しているのかもしれない。
末永桜花と鉄道とデリダ
末永桜花が鉄道を語ることは、一見、アイドルの個人的な趣味や関心の表明として捉えられがちだ。アイドルが自らの好きなことを語ることで、ファンとの親密な関係性を構築しているように見える。しかし、この行為の背後には、「アイドル」という存在そのものの脱構築を促す様々な力学が潜んでいる。
まず、「おっさん達を捕まえる」という発想が示唆するのは、アイドルとファンの関係性における権力の非対称性だ。アイドルは、ファンを「捕まえる」ことで、その欲望を管理し、コントロールする。それは、ファンをアイドルに従属させ、その主体性を抑圧する構造でもある。鉄道を語ることは、そのような権力関係を再生産し、強化してしまう危険性をはらんでいるのだ。
また、「仕事につなげる」という発想は、アイドルの活動を経済的な価値に還元する思考の表れでもある。アイドルの言動は、常に市場価値との関連で評価され、判断される。鉄道を語ることも、そのような経済的な論理に回収されてしまう可能性がある。アイドルの表現は、本来、もっと自由で多様なものであるはずだ。しかし、それを「仕事」という枠組みに閉じ込めてしまうことは、その可能性を狭めてしまうのではないか。
さらに、「好きなことを語る」という行為自体が、アイドルという存在の構築性を露呈させてもいる。アイドルは、常に「素顔」や「本音」を求められる存在だ。しかし、その「素顔」もまた、巧妙に演出された虚構ではないのか。鉄道を語ることは、そのようなアイドルの「真正性」というフィクションを維持するための装置なのかもしれない。
以上のように、末永桜花が鉄道を語ることは、アイドルとファンの権力関係、アイドル活動の経済化、アイドルの「真正性」の虚構性など、様々な問題系を孕んでいる。これらの問題系を脱構築的に読み解くことで、アイドルというシステムの根源的な問い直しが可能になる。アイドルとファンの関係性を権力ではなく、対話や共感に基づくものとして捉え直すこと。アイドルの表現を経済的な価値ではなく、美的な価値において評価すること。アイドルの「真正性」を所与のものとしてではなく、絶え間なく構築されるものとして認識すること。そのような方向性の中に、アイドル文化の新たな地平が拓かれるのではないか。
末永桜花が鉄道を語ることは、アイドルの在り方を根底から問い直すための契機となる。それは、私たちをアイドルというシステムの脱構築へと誘い、その存在の意味をより深く探求する道を開くのだ。「おーちゃんトレイン」という些細な企画の中に、アイドルという存在の脆弱性と可能性が同時に宿っている。そこにこそ、脱構築の生産的な力が潜んでいるのかもしれない。