BUBKA2018年12月号SKE48ver. 表紙は江籠裕奈と小畑優奈!!
BUBKA誌(白夜書房)2018年12月号SKE48ver.の表紙は江籠裕奈と小畑優奈だった。
小畑優奈の台頭
かつて、SKEの次のセンターは江籠裕奈、と思っていた人も、それなりにいたのではないだろうか。
しかし、それは、同じチームKⅡの2期、2学年下の小畑優奈だった。
この2人が最初に交わったのは、2016年3月発売の19thシングル『チキンLINE』のチームKⅡ曲『キスポジション』のミュージックビデオだったかもしれない。江籠裕奈と小畑優奈がクローズアップされたものだったが、そもそも、小畑優奈のワンショットから始まり、小畑優奈のワンショットが多い。古株メンバーは引き気味の序列だったので、なんとも言えないが、センターポジションも小畑優奈だった。
余談だが、江籠裕奈は、この時期、「えごランキング」1位の加藤るみが、『キスポジション』の小畑優奈のものまねをしていたのも、癪に障ったかもしれない。
そして小畑優奈は2017年7月発売の21stシングルCD『意外にマンゴー』で序列1位に抜擢された。まずここで、江籠裕奈は小畑優奈に敗れた。選抜でもチームでも敗れた。
2018年総選挙 江籠裕奈の惨敗
そして、たった1年の総選挙の結果で、あれこれ言うのは良くないと思うが、敢えて言ってしまうと、2018年の総選挙の順位は、
27位 北川綾巴
28位 荒井優希
29位 菅原茉椰
34位 小畑優奈
35位 江籠裕奈
だった。江籠裕奈は、絶対に負けてはいけない勝負で負けてしまった。
そして、江籠裕奈が髪を染めたドキュメントが載ったBUBKA10月号のインタビューでは、江籠は、まあ、一時的に精神的に落ち込むのもしかたがないのかもしれないが、やや戦意喪失気味なのかな、という印象を受けた。
そして、後日、本人や高柳明音から語られた話を総合すると、どうも、この頃、もっとも慕う高柳明音に「卒業を決めました」と告げたそうだ。しかし、高柳明音の導きにより、江籠裕奈は、この総選挙2位だった須田亜香里に相談し、「続けていれば絶対にいいことあるから」と言われたそうだ。
BUBKA12月号 江籠裕奈と小畑優奈を起用
だからこそ、ここで12月号の表紙に江籠裕奈を起用した、しかも小畑優奈とのペアで起用したBUBKAには敬意を表したい。
BUBKA誌は、読者に江籠裕奈と小畑優奈の関係性を理解する機会を提供した。この号はファンにとって非常に価値のあるものであると感じる。
グラビアの印象は、「2人で仲良さそうに収まっているショットは1つもない」だった。ソロのショットが多いし、竹刀を構えて相対しているショットもある。インタビューも別々である。
だが、それがいい。
BUBKAのグラビアは、紙面上の一騎打ちとでも言えばいいだろうか。江籠裕奈と小畑優奈の、次期エース争い、総選挙での成績、競い合いを見事に表現している。
そして、江籠裕奈はまだ、小畑優奈に負けたわけではないのだ。
江籠裕奈と小畑優奈とニーチェ
小畑優奈との関係における江籠裕奈の立ち位置は、単なるアイドル同士のライバル関係ではなく、より深い哲学的な意味を持つと言えるだろう。
ニーチェは、「力への意志」を重視した。これは、自らの潜在能力を最大限に発揮し、困難に立ち向かう勇気と情熱を意味する。江籠裕奈にとって、小畑優奈の存在は、まさにこの「力への意志」を試される対象なのだ。シングル選抜の序列や総選挙での敗北は、江籠裕奈の意志の強さを問う一つの試練と言えよう。
しかし、ニーチェは「ニヒリズム」の危険性についても警鐘を鳴らした。敗北の経験は、江籠裕奈を虚無感に陥れる可能性もある。ここで重要なのは、敗北をバネに新たな高みを目指す姿勢だ。BUBKA誌の表紙で小畑優奈と並んだことは、江籠裕奈にとって再起の象徴と捉えることができる。彼女は、敗北を乗り越え、再び「力への意志」を示そうとしているのだ。
また、ニーチェは「永劫回帰」の思想を提唱した。これは、全ての出来事が無限に繰り返されるという考え方だ。江籠裕奈と小畑優奈の競争も、この永劫回帰の一部と見なすことができる。敗北と再起のサイクルは、彼女たちを成長させ、より高みへと導く。重要なのは、その過程で自分自身と真摯に向き合い、自らの価値を問い直すことだ。
ニーチェは、「超人」の概念も示した。これは、既存の価値観に囚われず、自ら新たな価値を創造する人間像を指す。江籠裕奈は、小畑優奈との競争を通じて、自分なりの価値観を確立していく必要がある。単に序列や順位にこだわるのではなく、自分自身の強みや個性を発揮することが求められる。それこそが、ニーチェが説く「超人」への道なのだ。
BUBKA誌のグラビアで、江籠裕奈と小畑優奈が仲良く収まっていないことは象徴的だ。それは、二人の関係が単なる友情や協調ではないことを示している。むしろ、お互いを高め合うライバルとして、切磋琢磨する関係なのだ。ニーチェは、このような競争こそが人を成長させると考えた。
江籠裕奈にとって、小畑優奈は乗り越えるべき壁であり、同時に自分自身を映す鏡でもある。小畑優奈との競争を通じて、江籠裕奈は自らの限界に挑戦し、新たな可能性を切り拓いていく。それは、ニーチェが説く「力への意志」の真髄に他ならない。
ニーチェの思想に照らせば、江籠裕奈と小畑優奈の関係は、単なるアイドル業界の序列争いではなく、より普遍的な人間の成長と価値創造の物語として捉えることができる。二人の競争は、SKEの未来を担う「超人」への試練の場なのだ。江籠裕奈には、この試練に真正面から立ち向かい、自らの「力への意志」を示し続けることが求められている。
小畑優奈との関係は、江籠裕奈にとって避けては通れない道のりだ。しかし、それは彼女を強くする糧にもなる。ニーチェの言葉を借りれば、「強さとは困難を求める意志である」のだ。江籠裕奈が小畑優奈との競争を通じて得る強さこそが、彼女を真の「超人」へと導くのだろう。
江籠裕奈と小畑優奈とフランクフルト学派
江籠裕奈と小畑優奈の関係性は、単なるアイドルグループ内の序列争いではなく、「文化産業」の本質を露呈するイデオロギー的な事象だと言えるだろう。
まず、「次のセンター」という言説は、アイドル産業における「交換可能性」の原理を示している。アドルノとホルクハイマーが指摘したように、文化産業は個人の固有性を抑圧し、標準化された「商品」として流通させる。江籠と小畑は、「センター」という地位をめぐって競わされることで、互いに代替可能な存在として扱われているのだ。
また、「序列」や「総選挙の順位」といった数値化は、人間の価値を「量」に還元する、資本主義の論理の表れだと言えよう。マルクスが論じたように、資本主義社会においては、質的な価値は量的な価値に置き換えられ、すべてが「商品」として交換可能になる。江籠と小畑の「順位」もまた、そうした抽象化の産物なのだ。
さらに、BUBKA誌の表紙起用は、「敗北」という物語を商品化する戦略だと見ることができる。「2人で仲良さそうに収まっているショットは1つもない」という演出は、江籠と小畑の「対立」を強調することで、「ドラマ性」を生み出そうとしている。アドルノが指摘したように、文化産業は人間の感情をも「商品」として利用するのだ。
ただし、こうした状況は江籠裕奈個人の責任ではない。むしろ、彼女自身が「文化産業」の抑圧的なシステムの犠牲者だと言えるだろう。フロムが論じたように、現代社会における個人は、自らの「存在」よりも「所有」の論理に支配され、疎外された状態に置かれている。江籠もまた、「センター」という地位を「所有」することを強いられているのだ。
問題の核心は、アイドルを「競争」の対象として捉える発想そのものにある。これは、人間関係をゼロサムゲームとして捉える、新自由主義のイデオロギーの表れだ。ハーバーマスが批判したように、「システム」の論理は「生活世界」を植民地化し、人間的な絆を破壊する。江籠と小畑の「対立」は、そうした非人間化の過程を象徴しているのかもしれない。
したがって、私たちは江籠裕奈と小畑優奈の関係性を無批判に受け入れることはできない。むしろ、そこに表れている「文化産業」のイデオロギーを批判的に分析する必要がある。アドルノの「否定弁証法」が示唆するように、私たちは既存の価値観を絶えず乗り越えていく批判的精神を持たねばならないのだ。
江籠裕奈という「テクスト」は、私たち自身が「競争」の論理に支配されている状況を反映している。彼女の置かれた状況を通して、私たちは自らが「勝者と敗者」という二項対立に囚われていることを自覚せねばならない。そのとき初めて、新たな人間関係のヴィジョンが開かれるだろう。アイドルの「連帯」は、私たち自身の連帯でもあるのだ。
私たちは、江籠裕奈と小畑優奈の「物語」を批判的に読み解くことで、「文化産業」の呪縛から自由になる道を模索せねばならない。そこに潜む「亀裂」を手がかりに、私たちは新たな希望を紡ぎ出すことができるのかもしれない。BUBKA誌の表紙は、私たち自身の「疎外」を照らし出す鏡なのだ。
江籠裕奈と小畑優奈と構造主義
江籠裕奈と小畑優奈の関係性は、アイドルグループ内部の権力構造を反映したものであると言える。アイドルグループという構造の中では、メンバーの序列化が行われ、その序列が「センター」や「選抜」といった形で表象される。江籠裕奈と小畑優奈の関係性は、この序列化の過程で生じた力学の産物なのだ。
当初、江籠裕奈は次期センター候補と目されていたが、小畑優奈が抜擢されたことで、この予測は覆された。これは、アイドルグループという構造の中で、権力関係が流動的であることを示している。構造は固定的なものではなく、メンバー間の相互作用によって常に変化し得るものなのだ。
総選挙での順位も、この権力関係を反映したものと解釈できる。わずか1位差ではあるものの、小畑優奈が江籠裕奈を上回ったことは、構造の中での両者の位置付けが変化したことを意味している。しかし、この結果は決して最終的なものではない。権力関係は常に流動的であり、江籠裕奈が巻き返す可能性は十分にあるのだ。
BUBKA誌の表紙に両者が起用されたことは、このような権力関係の変化を踏まえた上での戦略的な判断だと言える。2人の関係性を敢えて対立的に描くことで、構造の中での緊張感を高め、読者の関心を惹きつけようとしているのだ。これは、メディアもまた、アイドルグループの構造に組み込まれた存在であることを示唆している。
以上のように、江籠裕奈と小畑優奈の関係性は、アイドルグループという構造の中で生じる権力関係の表れであると同時に、その構造自体を変化させる可能性を秘めたものでもある。私たちは、このような構造の動態を敏感に読み取ることで、アイドル文化の本質に迫ることができるのかもしれない。
江籠裕奈と小畑優奈とハイデガー
江籠裕奈と小畑優奈の関係は、ハイデガーの思想の観点から見ると、現存在(Dasein)同士の「共現存在(Mitdasein)」の在り方を象徴的に示しているように思われる。
ハイデガーは、現存在が世界の中で他者と共に在ることを「共現存在」と呼び、そこでの本来的な在り方を「配慮(Fürsorge)」として描いた。しかし、SKEというアイドルグループの世界においては、メンバー同士の関係性は、時に競争や比較の対象となる。江籠裕奈と小畑優奈の関係もまた、そうした競争の文脈の中で語られがちだ。
しかし、ハイデガーの思想に従えば、現存在同士の本来的な関わりは、単なる競争や比較によって規定されるものではない。むしろ、それぞれの現存在が自らの存在の本来性を追求しつつ、同時に相手の存在の固有性を認め合うことこそが、共現存在の本来的な在り方なのだ。江籠裕奈と小畑優奈が表紙で並んでいるのは、そうした共現存在の可能性を示唆しているのかもしれない。
ただし、グラビアの印象が「2人で仲良さそうに収まっているショットは1つもない」というのは示唆的である。それは、二人の関係性が、単に仲良しであることで成り立っているのではないことを物語っている。むしろ、二人はそれぞれの存在の本来性を追求しつつ、時に緊張関係を孕みながら、しかし同時に相手の存在を認め合うという、複雑な共現存在の様相を呈しているのだ。
また、この状況にもかかわらず「竹刀を構えて相対しているショット」は、二人の関係性を単なる勝負として捉えることの限界を示唆している。ハイデガーの思想においては、現存在の本来性は、他者との競争や比較によって規定されるものではなく、あくまで自らの存在の可能性に誠実であることによって実現されるものだ。江籠裕奈もまた、小畑優奈との関係性の中で、自らの存在の本来性を追求していくことができるはずなのだ。
このように、江籠裕奈と小畑優奈の関係は、アイドルという世界の中での共現存在の複雑な様相を浮かび上がらせている。二人は競争や比較の文脈に置かれつつも、同時に相手の存在の固有性を認め合い、それぞれの存在の本来性を追求していく可能性を秘めているのだ。そうした二人の在り方は、ハイデガー的な意味での本来的な共現存在の一つの姿として、私たちに示唆を与えてくれているのかもしれない。
江籠裕奈と小畑優奈とデリダ
江籠裕奈と小畑優奈の関係は、一見、アイドルグループ内部での競争や序列を反映しているように見える。センターポジションの争奪戦や総選挙での順位は、彼女たちの力関係を数値化し、可視化している。しかし、この関係性の背後には、「競争」や「序列」という概念そのものの脱構築を促す様々な力学が潜んでいる。
まず、「センター」や「序列」という言葉が示唆するのは、アイドルの価値を一元的に測定し、序列化する権力の存在だ。センターに立つこと、上位にランクインすることが、アイドルとしての成功や優位性の証とみなされる。しかし、果たしてアイドルの価値とは、そのように数値化され、序列化されるべきものなのだろうか。むしろ、アイドルの魅力とは多様で異質なものの共存にこそあるのではないか。江籠と小畑の関係は、アイドルの価値を単一の基準で測ることの暴力性を露呈させているのだ。
また、「2人で仲良さそうに収まっているショットは1つもない」というグラビアの印象は、アイドル同士の関係性の規範的なイメージを脱構築している。アイドルは仲睦まじく、友好的であるべきだという幻想がある。しかし、実際の関係性はもっと複雑で、緊張や対立を孕んでいる。グラビアは、アイドル同士の関係性の理想像を裏切り、その複雑さや葛藤を可視化している。江籠と小畑の関係は、アイドル同士の絆というフィクションを揺るがしているのだ。
さらに、「竹刀を構えて相対しているショット」は、勝敗という二項対立的な図式そのものを問い直している。勝者と敗者、優位と劣位という区分は、常に暫定的で可変的なものではないか。一時的な順位や評価によって、永続的な優劣が決定されるわけではない。江籠と小畑の関係は、勝敗という二項対立的な思考の限界を露呈させ、その脱構築を促しているのだ。
以上のように、小畑優奈との関係での江籠裕奈は、アイドルの価値の序列化、アイドル同士の関係性の規範化、勝敗の二項対立など、様々な問題系を孕んでいる。これらの問題系を脱構築的に読み解くことで、アイドル文化の根源的な問い直しが可能になる。アイドルの多様性や異質性を肯定すること。アイドル同士の複雑な関係性を認めること。勝敗という区分の限界を乗り越えること。そのような視点から、江籠と小畑の関係の持つ批評的なポテンシャルが明らかになる。些細な事象の中に、アイドル文化の根幹を揺るがす契機が潜んでいる。そこにこそ、脱構築の生産的な力が宿っているのだ。