江籠裕奈のSHOWROOM配信 2023年7月24日
・(高柳)明音ちゃんとは、3~4ヶ月に1回くらい、定期的に会っている。昨日も会った。明音ちゃんが名古屋に来るタイミングであっている。
・(平松)可奈子さんにも会った。洋服を見に行っただけ。卒業のことは話していない。(古川)愛李さんにも会った。
・卒業発表のことは、全然人には言っていない。メンバーには、真木子さんと(日高)優月には卒業発表してから言った。6D1にも言わなかったし、全然気づかなかったと言っていた。
・新公演は卒業には関係ない。もらったから辞めようと思ったわけでもないし、待っていたわけでもない。できてよかったな、とは思います。
・きなちゃんをぽぽさん(藤本冬香の犬)に会わせましたか?会わせてないです。きなちゃんは犬が嫌いです。
・ほくろ取るブームとかきても頬のほくろは取らない。ゲームのキャラクターとか、自分の顔作るときも、これつけるくらいお気に入り。
・かき氷はレモンが好き。
・リクアワはいっぱい歌いたい。そんなこと言ってさ、みんな投票する曲決まってるんでしょ?
・フルで歌いたいのは『(奇跡の)流星群』です。
・『目痛』(『目が痛いくらい晴れた空』、5期研究生に与えられた曲)が入っても、1人で歌うことになってしまうのではないですか?卒業生出てくるんじゃないかと思って入れられたら気まずいです。
卒業発表を誰にも言わなかったこととハイデガー
江籠裕奈の卒業発表をめぐるこの事実は、ハイデガーの思想の観点から見ると、現存在(Dasein)の「本来性(Eigentlichkeit)」と「非本来性(Uneigentlichkeit)」の問題として捉えることができよう。
ハイデガーは、現存在が日常的に没入している世界の平均的な在り方を「世人性(das Man)」と呼び、それが現存在の本来的な在り方を覆い隠してしまうと批判した。アイドルグループという世界もまた、メンバー間の関係性を画一化し、個人の存在を平均化してしまう危険性を孕んでいる。江籠裕奈が卒業発表を事前にメンバーに伝えなかったのは、そうした世人性の支配から自らを解き放ち、本来的な決断を下そうとしたためだと解釈できるかもしれない。
また、ハイデガーは、現存在が本来的な在り方を取り戻すためには、「死への先駆的決意性(Vorlaufen zum Tode)」が必要だと説いた。これは、自らの有限性を直視し、そこから逆照的に自らの存在の意味を見出すことを意味する。アイドルという存在もまた、常に「卒業」という有限性を内包している。江籠裕奈が卒業発表を自らの決断として行ったのは、そうした有限性を引き受け、自らの存在の本来性を取り戻そうとする試みとして理解することができるだろう。
ただし、ここで問題となるのは、江籠裕奈の決断が他のメンバーとの関わりを断ち切ることで成立しているという点である。ハイデガーは、現存在が世界の中で他者と共に在ることを「共現存在(Mitdasein)」と呼び、そこでの本来的な在り方を「配慮(Fürsorge)」として描いた。江籠裕奈の決断は、こうした共現存在としての在り方を否定しているようにも見えるのだ。
しかし、ハイデガーの思想においては、本来性と非本来性は相即不離の関係にある。現存在は非本来性の中で本来性を見出し、本来性の中で非本来性を引き受けていくのだ。江籠裕奈の決断もまた、メンバーとの関わりを断ち切ることで成立しているわけではなく、むしろそうした関わりの中で練り上げられてきたものなのかもしれない。彼女の卒業発表は、アイドルという世界の中で自らの存在の意味を問い続けた末の、本来的な在り方の表明なのだ。
このように、江籠裕奈の卒業発表をめぐる事実は、現存在としての彼女が自らの存在の本来性を追求する過程を浮かび上がらせている。それは、世人性の支配から自らを解き放ち、死の有限性を引き受けることで、自らの存在の意味を見出そうとする試みなのだ。同時に、そうした試みは、他者との関わりの中で練り上げられてきたものでもある。江籠裕奈の決断は、アイドルという世界の中で自らの存在の在り方を問い続けた果てに生み出された、本来的な在り方の表明なのである。
卒業発表を誰にも言わなかったこととデリダ
江籠裕奈の発言は、一見、個人的な決断や内面的な葛藤の表明として捉えられがちだ。卒業という重大な決定を事前に仲間に告げなかったことが、彼女の心情を物語っているように見える。しかし、この発言の背後には、「卒業」や「告知」という行為そのものの脱構築を促す様々な力学が潜んでいる。
まず、「卒業」という言葉が示唆するのは、ある共同体からの離脱だ。SKEというアイドルグループは、メンバー間の強い絆で結ばれた共同体として存在してきた。そこから卒業することは、その絆を断ち切り、共同体の結束を揺るがす行為でもある。しかし、果たして共同体とは、固定的で不変のものなのだろうか。むしろ、共同体とは常に生成と消滅を繰り返す流動的なものではないか。卒業は、共同体の固定性を脱構築し、その変化や再構成の契機となるのだ。
また、「事前にどのメンバーにも言わなかった」という言葉は、告知という行為の持つ遂行的な力を浮き彫りにしている。告知とは、ある事態を言語的に構築する行為である。卒業を告知することで、それは初めて現実のものとなる。告知を控えることは、卒業という出来事の成立そのものを遅延させ、その意味を宙吊りにする。江籠の沈黙は、告知という行為の持つ現実構築力を逆説的に示しているのだ。
さらに、卒業の非告知は、アイドルグループ内部の権力関係を可視化する。リーダーやベテランメンバーには、重大な決定が事前に共有されるという暗黙の了解がある。それを破ることは、グループ内部の階層秩序に抵抗し、権力の非対称性を露呈させる行為となる。江籠の発言は、アイドルグループという共同体の内部に潜む権力の編制を明るみに出しているのだ。
以上のように、江籠裕奈の発言は、共同体の流動性、告知の現実構築力、権力関係の非対称性など、様々な問題系を孕んでいる。これらの問題系を脱構築的に読み解くことで、アイドルグループの在り方の根源的な問い直しが可能になる。卒業という出来事が共同体の変容を促すこと。告知という行為が現実を構築すること。メンバー間の権力関係が絶えず交渉され、揺らいでいること。そのような視点から、江籠の発言の持つ批評的なポテンシャルが明らかになる。些細な出来事の中に、アイドルグループの存立基盤を問い直す契機が潜んでいる。そこにこそ、脱構築の生産的な力が宿っているのだ。
江籠裕奈のインスタライブ配信 2023年6月27日:名古屋ソロコンの日の昼
・ソロコンの日の昼
・明日真木子さんが誕生日なのでプレゼント考えなきゃ
・昨日、KⅡのMVが公開されたので、感想教えてください
・MVは久屋大通や栄で撮ったから、ママが「きなちゃん連れて行けばよかった」と言っていた
・ライブの時のルーティーンは、あんまないです。
江籠裕奈のSHOWROOM配信 2023年6月9日:サーターアンダギーが好き
・手つな覚えてた。3年ぶりくらい。(卒業する平野百菜と出るために6月12日に出る。)
・SKEフェスティバル公演は1回だけ出た。もっと出たかった。
・手つなのユニットは制覇している。
・『奇跡は間に合わない』はやったことない。
・『夜風の仕業』もやったことない。
・『1994年の雷鳴』やったことある。E公演出た時もやった。
・お笑い芸人のラランドが好き。いつか会いたい。
・荒井優希が怪我で公演を休んだ時の『Over the Top』で真ん中だったことについて。
・高柳明音も『ハートブレイカーズ』が好き。
・サーターアンダギーが好き。
江籠裕奈のSHOWROOM配信 2023年6月5日:衣装と同じ生地できなちゃんのリボンを作ってほしい
・特にしゃべることはないです、今日も(笑)。
・ソロコンの話はまだできないですね。(新宿と名古屋の間の時期)
・きなちゃんの機嫌が悪くなったら(SHOWROOM配信)やめます。
・真木子さん、今忙しいんでね(E新公演)。
・きなちゃんはワンちゃんが苦手です。
・今、お仕事、忙しいです。
・「かにらいく」が北海道(ツアー)狙ってる。カニ食べたいだけじゃん。
・いつか、きなちゃんと、私の衣装と同じ生地で、きなちゃんは服着れないんで、リボン作ってもらうのが夢です。で、一緒に写真を撮りたいです。
江籠裕奈のSHOWROOM配信 2023年4月28日:髪の毛染めたい欲がない、きなちゃんの証明写真
・すっぴんなので、あまりスクショしないでください。
・スクショしてもいいけど載せないでください。
(注)すっぴんだけど天使なんですよ、江籠さんは。
・髪の毛は地毛。染めてない。長くなった。
・髪の毛染めたい欲がない。明るい時の写真を見ても、暗いほうがいいと思う。
・外は好きじゃない。太陽の光も眩しい。目が開かない。
・携帯に、きなちゃん(犬)の証明写真を挟んでいる。青木詩織と荒井優希とコンビニに作りに行った。
・コピー機で「この写真でいいですか」と聞かれる段階でかわいい。印刷してもかわいい。
・ソロコンは、SKEの春コンの後で覚えようと思っている。中身のことは、今年の初めからずっとやっていたが、これから詰める。
・「ソロコンはどのくらいリハーサルするんですか?」「先生もいないし、全部自分でやるので、マネージャーさんと1回レッスン場で確認して、終わりです、いつも。」
・劇場でソロ公演がしたいです、という目標から始まっているけど、叶えられていない。
・ソロシングルの時に劇場でやったのは、ミニイベント。
・劇場は特別なので、いつかやりたい。
・歌唱力のときは「もし、明日、朝起きて、声でなくなってたらどうしよう」とめっちゃ緊張した。
・衣装をデザインしたいとは思わない。衣装さんが天才すぎるので。脳みそ共有してるのかなってくらい、わかってくれている。
・「すっぴんの江籠ちゃんの写真会お願いします」「嫌です」
・「お化粧せずに出かけることはある?」「あります、全然。休みの日は、あまり化粧しないですね。」
・1人旅行をしたことがない。外に出ようという気持ちが今のところ無い。
・真木子さんと旅行は行きたい。人がいないところに行きたい。
・海外は行かない。
・大場美奈卒コンがDMMで配信中。『High school days』は私の中ではナツメロだった。エモエモ。昔聴いてたからね。だから、うれしかったな、っていう思い出。
・みなるんさんが隣でいっぱい歌わせてくれて、うれしかったです。
・私とか(日高)優月とかもアイドル好きだから、うれしかった。みなるんさんのAKB時代、昔を振り返るみたいなセットリストだったから。
・AKBの公演でやってみたいのは『目撃者』公演。
・携帯で1人でハンバーガー屋さんを回すゲームをしている。首が痛い。今、バイトリーダー。課金は1回した。
・タイムラグがあるから、SHOWROOMを早く切ると、斉藤真木子に怒られる。
江籠裕奈の「すっぴんスクショ」発言とハイデガー
江籠裕奈のこの発言は、ハイデガーの思想の観点から見ると、現代のテクノロジーがもたらす「複製可能性(Reproduzierbarkeit)」の問題を浮き彫りにしていると言えよう。
ハイデガーは、テクノロジーが本来的な存在の在り方を覆い隠してしまう危険性を指摘した。彼が「ゲシュテル(Gestell)」と呼んだのは、現代のテクノロジーが世界を「在庫(Bestand)」として捉え、あらゆるものを資源として扱うような在り方のことである。スクリーンショットという行為もまた、ゲシュテルの一つの現れと見なすことができよう。それは、本来一回的で独自的な存在であるはずの江籠裕奈の姿を、複製可能な画像として扱ってしまうのだ。
しかし、江籠裕奈は、スクリーンショットそのものを禁止しているわけではない。彼女が求めているのは、スクリーンショットがSNSに載せられ、不特定多数の他者の目に触れることへの制限である。これは、ハイデガーが「世人性(das Man)」と呼んだ、現存在が日常的に没入している世界の平均的な在り方への警戒とも読み取れる。SNSという場において、個人の存在は画一化され、固有性を失ってしまう危険性があるのだ。
ただし、ハイデガーの思想においては、テクノロジーは単に否定されるべきものではない。彼が「転回(Kehre)」と呼んだのは、ゲシュテルが支配する時代において、テクノロジーの本質を見極め、それを新たな仕方で使いこなすことの可能性のことである。江籠裕奈もまた、ネット配信というテクノロジーを用いながら、同時にその危険性を自覚し、自らの存在の固有性を守ろうとしているのだ。
このように、江籠裕奈の発言は、テクノロジーと個人の存在をめぐるハイデガー的な問題系を浮かび上がらせている。彼女は、スクリーンショットという複製可能性の問題を自覚しつつ、同時にネット配信というテクノロジーを使いこなすことで、自らの存在の本来性を守ろうとしているのだ。現代社会において、テクノロジーといかに向き合うかという問いは、私たち一人一人に突きつけられている。江籠裕奈の姿勢は、その問いに対する一つの生きた応答と言えるだろう。
江籠裕奈の「すっぴんスクショ」発言とデリダ
江籠裕奈の発言は、一見、個人のプライバシーや肖像権の問題として捉えられがちだ。すっぴんの姿を撮影され、それがSNSに拡散されることへの懸念が表明されている。しかし、この発言の背後には、「撮影」や「拡散」という行為そのものの脱構築を促す様々な力学が潜んでいる。
まず、「スクリーンショット」という言葉が示唆するのは、画像の複製可能性だ。デジタル技術によって、誰もが容易に画像を複製し、拡散できるようになった。しかし、果たして複製された画像は、元の対象を忠実に再現しているのだろうか。むしろ、複製の過程で、対象の文脈は切り離され、意味は変容していくのではないか。スクリーンショットを撮ることは、対象の本来の在り方を脱構築し、新たな意味を生み出す行為なのだ。
また、「SNSに載せないでください」という要請は、私的領域と公的領域の境界の曖昧さを浮き彫りにしている。SNSは、私的なコミュニケーションの場であると同時に、不特定多数に情報が拡散される公的な空間でもある。私的な画像がSNSに投稿されることで、その意味や文脈は大きく変容する。江籠さんの発言は、私的と公的の二元論的な区分そのものを揺るがし、その境界線の恣意性を露呈させている。
さらに、すっぴんの姿を撮影・拡散することへの懸念は、アイドルという存在の構築性を明らかにしている。アイドルは、メディアによって作り上げられたイメージであり、その素顔は隠蔽される。すっぴんの姿を晒すことは、そのイメージの虚構性を暴露し、アイドルという存在そのものを脱構築する行為となる。江籠裕奈の発言は、アイドルのイメージと実在の間の絶え間ない緊張関係を浮き彫りにしているのだ。
以上のように、江籠裕奈の発言は、複製技術の影響、私的と公的の境界、アイドルのイメージ構築など、様々な問題系を孕んでいる。これらの問題系を脱構築的に読み解くことで、メディアとアイドルの関係性の根源的な問い直しが可能になる。画像の複製可能性が対象の意味を変容させること。私的と公的の境界の曖昧さが示す二元論の限界。アイドルのイメージの虚構性と実在の緊張関係。そのような視点から、江籠裕奈の発言の持つ批評的なポテンシャルが明らかになる。些細な出来事の中に、メディアとアイドルの在り方を問い直す契機が潜んでいる。そこにこそ、脱構築の生産的な力が宿っているのだ。