9期生5人が劇場公演デビュー!
2019年2月10日に2月14日の青春ガールズの出演メンバーが発表された。
9期生の
青海ひな乃
荒野姫楓
石川花音
岡本彩夏
田辺美月
が公演デビューの予定だ。
他の出演メンバーは
7期生
浅井裕華
ドラフト2期生
なし
8期生
井上瑠夏
坂本真凛
大芝りんか
倉島杏実
野々垣美希
深井ねがい
ドラフト3期
大谷悠妃
中野愛理
西満里奈
平田詩奈
である。
浅井裕華のリーダー性
浅井裕華以外の7期生、7期生とほぼ同期のドラフト2期生も出演しない。浅井裕華がダントツの先輩である。
これにはなにか意味があるのだろうか?
浅井裕華。
最近、握手の売上が伸びているようだ。最近では重い、面倒くさいキャラで、少し前は、ゆうかたんにゃんだった。
ただ、さらにさかのぼると、
オーディション映像では「学級委員でまとめるのが得意」とアピールしている。(現在は見られない。)
筆者はこのオーディション映像を見て、聡明そうな子だな、と思った。7D2の研究生公演のMCでも、学級委員気質、姉御肌の発言が見られたと筆者は思っていた。そして、小学生のうちに、S、KⅡ、Eにアンダー出演し、研究生公演ではセンターを務めた。
さすがに、現チームEでは、後輩、年少ということもあり、学級委員気質、姉御肌を発揮するのは難しいのだろう。
浅井裕華と佐藤すみれの関係については、佐藤すみれと浅井裕華という記事で書いた。
ゆうかたんにゃんとATMお姉さん、というのはキャラであり、佐藤すみれは浅井裕華が妹系ではなく、むしろ逆、姉御肌で、仕事に対しても真摯、SKEを託せる人材だと見抜いた上で、おかしいくらいに可愛がっていたのである。
筆者は少し前まで、SKEのキャプテンは斉藤真木子→市野成美→浅井裕華と受け継がれていくのではないかと思っていた。ところが、市野成美は卒業した。卒業間際、市野成美はたしか、公式ブログ、雑誌など各所で、浅井裕華に後事を託すような発言をしていた。
筆者は浅井裕華が大好きなので、気付いていたのだが、ここのところ、青春ガールズ公演で浅井裕華が『雨の動物園』に出たときには、ほぼ(必ず?)浅井裕華はそのままMCに残っていた。これに何らかの意味はあったのだろうか?
そして今回、浅井裕華はリーダーシップを発揮する機会を得た。このようなメンバー構成が続くのかはわからない。しかし、筆者は、運営の浅井裕華への何らかの期待の現れではないかと思うのである。
追記
浅井裕華はこの後、2019年7月発売の25thシングル『FRUSTRATION』で初選抜入りを果たす。
2020年1月発売の26thシングル『ソーユートコあるよね?』では須田亜香里、古畑奈和、熊崎晴香に次ぐ序列4位と大躍進を果たした。江籠裕奈より上の序列である。まあ、須田会メンバーとしての論功行賞的な面も多少あったのかもしれない(笑)。
言えるのは、たしかに本記事公演にはすでに、浅井裕華の快進撃は始まっていたのだ!
浅井裕華のリーダー性とニーチェ
ニーチェの思想を踏まえると、浅井裕華の状況は、単なるアイドルグループ内の立ち位置の変化ではなく、より深い人間的な成長と価値創造の過程として捉えることができる。
ニーチェは、「力への意志」を重視した。これは、自らの潜在能力を最大限に発揮し、困難に立ち向かう勇気と情熱を意味する。浅井裕華は、オーディション時から学級委員的な資質を示し、研究生時代には早くからセンターを務めるなど、その強い意志と能力を発揮してきた。キャラの変化や立ち位置の変化は、彼女の「力への意志」の表れと言えるだろう。
また、ニーチェは「超人」の概念を提唱した。これは、既存の価値観に囚われず、自ら新たな価値を創造する人間像を指す。浅井裕華は、「ゆうかたんにゃん」から姉御肌へ、そして今回のリーダーシップの発揮へと、常に新たな価値を生み出してきた。これは、ニーチェが理想とした「超人」の姿に通じるものがある。
ニーチェは、『ツァラトゥストラはこう言った』の中で、個人の 「自己超越」 の重要性を説いた。これは、既存の価値観から自由になり、自らの価値を創造することを意味する。佐藤すみれが浅井裕華に行ったのは、まさにこの 「自己超越」 を促す働きかけだったと言えるだろう。
佐藤すみれは、浅井裕華に「ゆうかたんにゃん」キャラを与えるだけではなく、むしろ姉御肌の資質を見抜き、その能力を信じて支え続けた。これは、浅井裕華に既存の枠組みにとらわれない生き方を促す行為であり、ニーチェが重視した 「自己超越」 の精神に通じるものがある。
浅井裕華は、佐藤すみれとの関係性の中で、自らの可能性を信じ、新たな自分を創造していく勇気を得たのだ。「ゆうかたんにゃん」からリーダーへのキャラの変化は、単なる役割の変更ではなく、浅井裕華が自らの価値観を乗り越え、新たな自分を生み出す 「自己超越」 の過程と言えよう。
ニーチェの思想に照らせば、佐藤すみれは浅井裕華に「自己超越」の道を示した理想の導き手であり、浅井裕華はその道を自らの意志で歩んだ「超人」への途上にある存在なのだ。二人の関係性は、単なる先輩後輩のそれを越えて、人間の成長と価値創造の本質を体現するものと言えるだろう。
さらに、ニーチェは「永劫回帰」の思想を提唱した。これは、全ての出来事が無限に繰り返されるという考え方だ。斉藤真木子から市野成美、そして浅井裕華へと受け継がれるSKEのリーダーシップは、この永劫回帰の一例と捉えることができる。浅井裕華は、先輩たちから受け継いだバトンを、次の世代へと手渡していく宿命を背負っているのだ。
ただし、リーダーシップの発揮には、一定の危険性も伴う。ニーチェは「ニヒリズム」の脅威についても警鐘を鳴らした。重責を担うことで、浅井裕華が虚無感や絶望感に陥る可能性もある。彼女には、自分自身の価値観を見失わないための強い意志が求められる。
浅井裕華の成長と変化は、SKEという集団の中で起きる一つの事象ではあるが、同時に普遍的な人間の成長物語でもある。ニーチェの思想に照らせば、彼女の姿は、自らの運命に立ち向かい、新たな価値を生み出していく「超人」の姿なのだ。
浅井裕華という存在は、SKEにとって、そして私たちにとって、大きな意味を持つ。彼女の成長は、私たちに「力への意志」と「価値の創造」の重要性を教えてくれる。そして、彼女の挑戦は、常に新しい可能性を切り拓いていく人間の尊厳を体現しているのだ。
ニーチェは、「人間とは乗り越えられるべき何かである」と述べた。浅井裕華の歩みは、まさにこの言葉の具現化と言えよう。彼女は、自らの限界に挑戦し、常に新たな自分を創造し続けている。その姿は、SKEのみならず、現代を生きる全ての人々に、深い示唆と勇気を与えてくれるはずだ。
私は、浅井裕華の更なる成長と飛躍を心から願っている。彼女の「力への意志」が、SKEの未来を切り拓き、多くの人々の心に光をもたらすことを信じてやまない。彼女は新たな道を歩み続けるだろう。その先に、真の「超人」としての浅井裕華の姿が待っているはずだ。
浅井裕華のリーダー性と構造主義
構造主義の観点から見ると、SKE48というアイドルグループの中で、浅井裕華という個人の存在と役割は、グループ内の権力構造や人間関係の力学を反映したものとして解釈することができる。
SKE48は、メンバーの序列と役割分担によって成り立つ一つの構造体だ。その中で、年齢や加入期によって規定される先輩後輩関係は、単なる時間的な序列ではなく、グループの規範や文化を伝達するための重要な機能を果たしている。 浅井裕華が7期生の中でも特異な存在として位置づけられるのは、このような構造の中で 彼女が担わされた役割と密接に関係している。
浅井裕華は加入当初から 「学級委員でまとめるのが得意」というアピールをしており、その姿勢はグループ内でのさまざまな活動の中で発揮されてきた。これは、彼女が単なる「ゆうかたんにゃん」のキャラクターではなく、リーダーシップを 取れる「姉御肌」の存在として認識されていたことを示唆している。特に、佐藤すみれとの関係性は、 このようなキャラクター性を超えた、グループの未来を見据えた信頼関係として解釈することができるだろう。
ここで重要なのは、浅井裕華の存在がSKE48という構造の中で戦略的に位置づけられ、活用されてきたということだ。彼女がMCや特定の曲で重要な役割を与えられてきたのは、 単なる偶然や個人的な資質によるものではなく、グループの方向性を決定する権力者による意図的な判断の結果だと考えられる。つまり、浅井裕華は、構造の中で「育てられてきた」存在なのだ。
しかし同時に、浅井裕華自身もまた、与えられた役割を超えて、グループの未来を切り拓こうとする能動的な主体でもある。 彼女が後輩メンバーとの関係性の中で発揮するリーダーシップは、単にトップダウン的な権力行使ではなく、メンバー同士の相互作用の中で生み出されるものだと言えるだろう。この意味で、浅井裕華の存在は、構造に規定されつつも、それを変革していく可能性を秘めた存在なのだ。
以上のように、浅井裕華という個人の存在は、SKE48というアイドルグループの構造的な特質を浮き彫りにすると同時に、その構造を動態的に捉える視点を提供してくれる。アイドルという存在が単なる受動的な商品ではなく、能動的な主体として社会や文化の中で機能していることを示唆しているのだ。 私たちはアイドルを通して、現代社会の構造と個人の関係性について考えることができるのかもしれない。
浅井裕華のリーダー性とハイデガー
ハイデガーは人間存在を「現存在 (Dasein)」と呼び、それは常に世界の中で存在しながら、自らの可能性に向けて実存する存在だと考えた。浅井裕華もまた、アイドルグループという特殊な世界の中で、自らの存在可能性を模索しながら生きている現存在だ。
浅井裕華は「学級委員でまとめるのが得意」というアピールをしていた。これは、浅井裕華が自らの存在可能性の一つとして、リーダーシップを発揮することを見出していたことを示している。ハイデガーは、現存在が本来的に在るためには、自らの可能性を引き受け、決断することが重要だと説いた。浅井裕華は、アイドルという世界の中で、リーダーシップを発揮するという可能性を引き受けようとしているのかもしれない。
また、佐藤すみれは浅井裕華を「妹系ではなく、むしろ逆、姉御肌」だと見抜いていた。これは、浅井裕華の存在可能性を他者である佐藤すみれが認めていたことを示している。ハイデガーは、現存在は常に他者との関わりの中で存在しており、他者もまた現存在の存在可能性を開示する役割を持っていると考えた。佐藤すみれは、浅井裕華の存在可能性を開示する重要な他者だったのかもしれない。
佐藤すみれは、浅井裕華が自分を「妹系」ではないと考えていることを理解した上で、浅井裕華を「姉御肌」だと見抜いていた。つまり、佐藤すみれは浅井裕華の自己理解を尊重しつつ、さらにその先にある浅井裕華の可能性を見出していたと言える。他者から見た自分の姿は、自分自身の理解とは異なることがある。他者との対話を通じて、私たちは新たな自己理解に到達することができるのだ。
佐藤すみれは、浅井裕華との対話を通じて、浅井裕華の自己理解をより深いものにしたのかもしれない。浅井裕華が「妹系」ではないと考えていることを受け止めつつ、同時に浅井裕華の「姉御肌」という側面を明るみに出すことで、佐藤すみれは浅井裕華の自己理解を広げ、深めることに貢献したとも考えられる。このように、佐藤すみれは浅井裕華の存在可能性を開示するだけでなく、浅井裕華の自己理解を深化させる重要な他者だったと言えるだろう。佐藤すみれとの関わりを通じて、浅井裕華は自分自身をより深く理解し、新たな可能性を見出していったのかもしれない。
ハイデガーは現存在が本来的な在り方を選び取ることの難しさについても語っている。現存在は常に「世人 (das Man)」という非本来的な在り方に陥る可能性を孕んでいる。アイドルグループという世界も、画一的な価値観に支配され、現存在の本来的な在り方を阻害する可能性がある。浅井裕華が自らの存在可能性を真に引き受けるためには、そうした画一的な価値観に流されることなく、自らの存在を問い直し続けることが求められるだろう。
以上のように、浅井裕華という一人の現存在が、アイドルグループという特殊な世界の中で、自らの存在可能性を模索している様子が浮かび上がってくる。浅井裕華がこれからどのような道を歩んでいくのか、彼女の存在可能性がどのように開花していくのか、注目しよう。しかし同時に、アイドルグループという世界の画一的な価値観に流されることなく、自らの存在を問い直し続けることの難しさについても、私達は考える必要があるだろう。
浅井裕華のリーダー性とデリダ
ただ、浅井裕華という存在を固定化しようとしていいのだろうか。筆者は、浅井の様々な側面を列挙することで、彼女の本質を捉えようとした。「学級委員気質」「姉御肌」「妹系ではない」といった言葉は、浅井の人格を特定の枠組みに当てはめようとする試みだ。しかし、果たして人間の本質を固定化することは可能なのだろうか。私達の存在は常に差延の運動の中にある。ある特定の時点での言動や振る舞いから、その人物の本質を決定づけることはできないかもしれない。
浅井裕華もまた、絶え間なく変化し続ける存在だと言える。彼女は状況に応じて、様々な側面を見せている。「ゆうかたんにゃん」としてファンを楽しませる一方で、真摯な姿勢で仕事に取り組む。そのような多面性こそが、浅井裕華の魅力なのかもしれない。彼女の存在を特定の枠組みに固定化することは、そのような多面性を見失わせてしまう恐れがあるかもしれない。
浅井裕華の将来を予測しようとしている点も問題かもしれない。筆者は、浅井がSKE48のキャプテンになるのではないかと予想した。しかし、果たしてそのような予測は可能なのだろうか。人間の未来は、常に不確定なものだと言えるだろう。様々な偶発的な出来事が、私たちの人生を左右するだ。浅井裕華の未来もまた、誰にも予測できないものであろう。
デリダの思想が示唆するのは、このような固定化と予測の思考様式を脱構築する必要性だ。私達は、ある人物の本質を決定づけたり、その未来を予測したりすることに慣れ親しんでいる。しかし、そのような思考様式は、人間存在の複雑さと不確定性を見落としてしまう恐れがある。浅井裕華という存在もまた、そのような複雑さと不確定性を孕んでいるはずだ。彼女を固定化された枠組みに当てはめることは、彼女の可能性を狭めてしまうことにつながりかねない。
では、私たちはどのように浅井裕華という存在に向き合えばよいのだろうか。彼女の言動や振る舞いを絶え間なく読み解き続けることが重要性だろう。ある特定の時点での彼女の姿に固執するのではなく、その変化の過程そのものに目を向けること。そうすることで、私たちは浅井裕華という存在の豊かさと可能性を感受することができるはずだ。
浅井裕華の未来は、誰にも予測できない。しかし、だからこそ、彼女の可能性は無限に開かれているとも言える。私達に求められるのは、そのような可能性に寄り添い続けることなのかもしれない。彼女の言動や振る舞いを固定化された枠組みに当てはめるのではなく、その変化の過程そのものを見守ること。そこにこそ、浅井裕華という存在の真の魅力が宿っているのかもしれない。
アイドルを固定化された理想像に当てはめるのではなく、その変化の過程そのものに目を向けること。そのような視点の転換こそが、アイドル文化の新たな地平を切り拓く契機になるのかもしれない。浅井裕華という存在もまた、そのような新たな地平を切り拓く可能性を秘めているはずだ。彼女の言動や振る舞いを脱構築の視点から捉え直すこと。そこにこそ、アイドル文化の未来を展望する鍵があるのかもしれない。