【SKE48】浅井裕華と佐藤すみれの関係:ゆうかたんにゃんお姉さん

浅井裕華を溺愛する佐藤すみれ(ゆうかたんにゃんお姉さん)

 SKE48の佐藤すみれが浅井裕華をおかしいくらいに可愛がっている。

 佐藤すみれは、かねてから、浅井裕華を「甘いお菓子に見える」などと、おかしなことを言っていたが、ある日のチームE公演で佐藤すみれは、ついに、「私はゆうかたんにゃんお姉さんだ」(ゆうかたんは浅井裕華の愛称)と言い出した。
 今から考えると、佐藤すみれは、その時、SKE卒業を決めていたはずである。卒業を決めると、活動へのモチベーションが下がるメンバーも見られるが、佐藤すみれは逆で、むしろ、より、面白くなった。
 また「若手育成係」をやりたい、と言って、「す~信簿」を始めたのも、卒業を決めてからだろう。
人間は、別れ際に本性が出るという。佐藤すみれは、いい人なのだろう。

実は妹系ではない浅井裕華:その真摯な努力

 だが、浅井裕華は2017年12月9日の東海ラジオ『1+1+1は3じゃないよ』にて「可愛がられるよりも可愛がる方が好き」と言っていた。

 一方の佐藤すみれも、『100%SKE48』(白夜書房)や浅井裕華生誕祭のお手紙で浅井裕華を見抜いていたことを語った。
 佐藤すみれは『100%SKE48』誌で浅井裕華を、「練習をしてきたことがわかる」「『ウインブルドンに連れて行って』(SKEの劇場公演の楽曲)の衣装は(ピンクではなく)水色を選ぶと思った」「妹キャラ扱いされているけど自分では違うと思っている」と語っている。
 また、佐藤すみれは、浅井裕華生誕祭では、「可愛いというだけで私はここまで動かない」「しっかりしている」「お仕事に対して真面目に取り組む姿勢」「先輩やスタッフへの丁寧な態度」「みんなから愛される性格「SKEを引っ張るくらいの人になってほしい」「妹系ではなくてお姉さん気質」とお手紙に綴っていた。

 佐藤すみれは、浅井裕華が妹系ではなく、むしろ逆だと見抜いた上で、おかしいくらいに可愛がっていたのである。

 そもそも浅井裕華は小学生のうちに、S、KⅡ、E公演にアンダー出演し、研究生公演でセンターを務めた人である。みなさん忘れていませんか?(笑)

SKEの「元」妹キャラ達

 佐藤すみれはおそらく無自覚だがSKEの古株メンバーは「ある時期」から、ただ可愛いだけの若手を
可愛がることをやめたのではないか。真面目にアイドル道に邁進していないメンバーを溺愛するのは良くないと。
 SKEという集団自体、それ以前からもともとそういう気質はあったと思う。一時期は江籠裕奈が「みんなの妹」だったが、斉藤真木子は研究生時代の江籠裕奈を「毎日レッスン場にいる」と語ったことがある。桑原みずきも、卒業前に公式ブログでSアンダーに出ている5期生の向上心を褒め、その中に江籠裕奈の名もあった。

 現在、SKE最年少の倉島杏実も、妹系ではない。むしろ真逆で、SKEをあと15年託せるリーダー性の高い人材だと思う。

 江籠裕奈も家庭では長女で実は妹系ではない。竹内彩姫もかつては妹系キャラだったが彼女も長女である。同学年で江籠氏、竹氏と呼び合うこの2人も、お姉さん側に回って魅力が出るようになってきた。

 浅井裕華は家庭では妹なのだが、かなり早い段階でSHOW ROOMで「私お兄ちゃんいますから」とマジレスをして、妹キャラを拒否していた。
 浅井裕華にアイドルとして唯一の失点があったとしたら、妹キャラを拒否して「お兄ちゃん」を逃したことかもしれないし、それでよかったのかもしれない。
 佐藤すみれとの「妹キャラギミック」はまあ、しかたないから受け入れたのだろう。

 甘そうに見えて実は甘くない。そんなところもSKEの魅力だ。そういう人材がたくましくSKEを担い、率いてゆく。

追記:浅井裕華の実の姉、ときわ藍のコメント

 浅井裕華の姉は、ご存じのように、漫画家「ときわ藍」である。
 ときわ藍先生は、佐藤すみれの卒業に際し「妹とのギャグ面白かったです」とコメントしていた(笑)。プロの漫画家から見ると、佐藤すみれと浅井裕華のやりとりは、ギャグなのだろう。

追記:浅井裕華の出世

 そして、浅井裕華本人も2019年7月発売の25thシングル『FRUSTRATION』で高1にして初選抜入りを果たした。
 2020年1月発売の26th『ソーユートコあるよね?』では、序列4位という、大躍進を果たした。
 上記の佐藤すみれのコメントからしても、出世すべくして、出世しているのだろう。

佐藤すみれと浅井裕華とキルケゴール

 佐藤すみれと浅井裕華の関係は、一見すると、先輩メンバーが後輩メンバーを溺愛しているように見える。しかし、「主体性と客体性」の概念から見ると、佐藤すみれは浅井裕華の内面性を見抜き、その主体性を尊重していたと解釈できる。佐藤すみれは、浅井裕華を単なる「妹系」という客体的なイメージにとらわれず、彼女の真摯な努力や性格を認識していたのだ。

 また、佐藤すみれのSKE48卒業が近づく中で、彼女が浅井裕華へのかわいがりを強めたことは、「実存の段階」における「倫理的段階」から「宗教的段階」への移行を象徴しているとも言える。卒業という人生の転機に直面した佐藤すみれは、自己の内面と向き合い、浅井裕華への思いを純粋に表現することで、自己実現への道を歩んだのではないだろうか。

 さらに、佐藤すみれが浅井裕華の潜在的な能力を認識し、「SKEを引っ張るくらいの人になってほしい」と願ったことは、「間接伝達」の一種と捉えることができる。キルケゴールは、直接的な伝達ではなく、間接的な伝達を通じて、人々に自己反省を促すことを重視した。佐藤すみれは、浅井裕華への愛情を通じて、彼女自身の成長を促し、SKE48の未来を託そうとしたのかもしれない。

 一方、浅井裕華自身も、佐藤すみれのかわいがりを通じて、自分自身と向き合う機会を得たと考えられる。キルケゴールは、「不安」と「絶望」が自己認識と成長のきっかけになると考えたが、浅井裕華は、自分に対する佐藤すみれの期待に不安を感じつつも、それを乗り越えようと努力することで、内面的な成長を遂げていったのではないだろうか。

 結論として、佐藤すみれが浅井裕華をかわいがっていることは、キルケゴールの実存主義的思想を体現する関係性であったと言える。佐藤すみれは、浅井裕華の主体性を尊重し、間接的な伝達を通じて彼女の成長を促した。一方、浅井裕華は、佐藤すみれのかわいがりを通じて、自分自身と向き合い、内面的な成長を遂げていったのだ。このような関係性は、現代社会において、個人の主体性や内面性が重視される中で、大きな意義を持つものだと考えられる。

佐藤すみれと浅井裕華とプラグマティズム

 まず、佐藤すみれは、浅井裕華の本質を見抜いている。妹系のキャラクター扱いされがちな浅井だが、佐藤は彼女の真面目で努力家な面、そしてリーダーシップのポテンシャルを認識している。これは、プラグマティズムが重視する経験主義に基づく洞察だと言える。表面的なイメージではなく、実際の行動や姿勢から浅井の真の姿を捉えているのだ。

 また、佐藤すみれは、浅井裕華への愛情表現を通じて、SKEの未来を見据えているようにも見える。佐藤はSKE卒業を決めていたからこそ、次世代を担う人材の育成に力を注いでいたのかもしれない。浅井への期待は、彼女個人の成長だけでなく、グループ全体の発展につながるという実践的な意義を持っているのだ。

 さらに、佐藤すみれの行動は、アイドルという職業の本質を体現しているとも言えるだろう。アイドルの仕事は、単に可愛く見えることではない。真摯な努力、周囲への配慮、そしてファンを楽しませる工夫が求められる。佐藤は、浅井への愛情表現を通じて、アイドルの仕事に対する姿勢を示しているのだ。

 加えて、佐藤すみれと浅井裕華の関係性は、メンバー同士の絆の重要性を示唆している。アイドルグループは、一人一人の力だけでなく、メンバー間の信頼と協力によって成り立っている。佐藤が浅井を認め、支えることは、グループ内の結束を強める効果があるだろう。

 ただし、プラグマティズムの観点からは、この関係性も絶対的なものではない。状況の変化に応じて、柔軟に関係を調整していく必要がある。佐藤すみれの卒業後、浅井裕華がどのように成長し、新たな関係性を築いていくかが問われることになる。

 最後に、佐藤すみれの行動は、アイドル文化という社会的な文脈の中で意味を持っている。アイドルは、ファンの応援やメディアの注目を集める存在だ。佐藤が浅井を可愛がることは、ファンにも好意的に受け止められ、SKEの人気につながっていく。アイドル文化の中で、メンバー同士の絆は重要な意味を持つのだ。

 以上のように、プラグマティズムの観点から見ると、佐藤すみれが浅井裕華をかわいがっていることは、単なる感情の表現ではなく、多面的な意義を持つ行為だと言える。それは、浅井の本質を見抜く洞察力、SKEの未来を見据えた育成、アイドルの仕事への姿勢、メンバー間の絆、そしてアイドル文化の文脈の中で意味を持っている。佐藤すみれの行動は、プラグマティズムの実践的な思考を体現していると言えるだろう。

佐藤すみれと浅井裕華とフランクフルト学派

 佐藤すみれが浅井裕華を溺愛する行為は、一見すると個人的な感情の表現のようだが、実は「文化産業」の支配的なイデオロギーを再生産する過程だと言えるだろう。

 まず、佐藤が浅井を「甘いお菓子に見える」と表現するのは、アイドルの「商品化」を象徴している。浅井の個性は、消費者の欲望を煽るための「商品」として扱われ、物象化される。アドルノが指摘したように、文化産業は個人を記号化し、交換可能な商品として流通させるのだ。

 また、「ゆうかたんにゃんお姉さん」というキャラクター設定は、アイドル産業における「役割」の強制を示している。佐藤は、産業のシステムに従って、自らに与えられた役割を演じているのだ。これは、マルクーゼが批判した「一次元的社会」における個人の抑圧の一形態と言えるだろう。

 ただし、佐藤が浅井の真摯な努力を評価する姿勢は、こうしたイデオロギーの亀裂を示すものでもある。彼女は、浅井が「妹系」というステレオタイプに収まらない個性を持つことを認識している。これは、既存の価値観に抵抗し、オルタナティブを模索する可能性を示唆しているのだ。

 しかし、問題は、こうした抵抗の芽が、結局のところ「文化産業」のシステムに回収されてしまうことだ。佐藤は、浅井を「SKEを引っ張るくらいの人」になることを期待するが、それは彼女を再びシステムの中に位置づけることでもある。ハーバーマスが指摘するように、「システム」の論理は、あらゆる抵抗を内部化し、無力化してしまうのだ。

 とはいえ、だからこそ、佐藤と浅井の関係性は、批判理論にとって重要な意味を持つのかもしれない。アドルノの「否定弁証法」が示唆するように、私たちは既存の価値観を絶えず乗り越えていく批判的精神を持たねばならない。佐藤が浅井の中に見出した「亀裂」は、そうした批判の契機となり得るのだ。

 重要なのは、私たち自身がアイドル産業のイデオロギーを内面化していることを自覚することだ。佐藤と浅井の関係性を通して、私たちは自らの欲望や価値観が「文化産業」によって形作られていることを認識せねばならない。そのとき初めて、オルタナティブなアイドル像、ひいては新たな社会像を構想することができるだろう。

 佐藤すみれの「溺愛」は、単なる個人的な感情ではなく、私たち自身の「解放」への道標なのかもしれない。彼女が浅井裕華の中に見出した光は、抑圧的な現実を突き崩す希望の光なのだ。私たちは、その光を手がかりに、自らの「否定」の道を歩まねばならないのである。

佐藤すみれと浅井裕華とハイデガー 

 人間は「世界内存在」として、常にすでに他者とのつながりの中で生きている。私たちは、孤立した主体ではなく、他者との関わりの中で自己を形成していくのだ。アイドルグループもまた、このような共同存在の一つの形態だと言えるだろう。メンバー同士の絆は、単なる個人的な好みを超えて、グループの歴史と伝統を担うものなのだ。

 佐藤すみれが浅井裕華を溺愛していることは、一見すると奇異に見えるかもしれない。「甘いお菓子に見える」などという表現は、通常の先輩後輩関係からは逸脱しているようにも思われる。しかし、ここには単なる個人的な感情以上の意味があるのではないだろうか。

 ハイデガーは、人間を「死への存在」と規定した。私たちは有限な存在であり、いつか必ず死を迎える。この死の脅威に直面することで、人は初めて本来的な自己を獲得するのだ。佐藤すみれがSKE卒業を決意した時、彼女はまさにこの「死」と向き合ったと言えるだろう。アイドルとしての生の有限性を自覚したからこそ、彼女は浅井裕華への愛情を一層強く表現したのかもしれない。

 また、佐藤すみれは浅井裕華の本質を見抜いていたことがわかる。彼女は、浅井裕華が妹系キャラクターではなく、真摯に努力を重ねる人物であると見抜いていたのだ。ここには、単なる表面的な印象ではなく、人間の本来的な在り方を洞察する眼差しがある。ハイデガーのいう「現存在の解釈学」を思わせる態度だと言えるだろう。

 佐藤すみれは、浅井裕華の可能性を信じ、そのために自らの存在を賭けているのだ。これは、単なる個人的な感情ではなく、SKEの未来を見据えた行為だと解釈できる。ハイデガーが説くように、本来的な共同存在とは、互いの存在可能性を開示し合う関係なのだ。佐藤すみれは、浅井裕華という後輩の中に、SKEを引っ張っていく力を見出したのかもしれない。

 もちろん、このような関係性は、一朝一夕に築かれるものではない。佐藤すみれと浅井裕華の絆は、日々の活動の中で育まれてきたものだ。公演での共演や、楽屋での会話、そして生誕祭でのお手紙。これらすべてが、二人の存在を結びつける契機となっているのだ。

 ハイデガーは、言語を「存在の家」と呼んだ。私たちは言葉を通して、世界を理解し、他者とつながる。佐藤すみれが浅井裕華に向けた言葉もまた、二人の存在を結びつける言語なのだ。「ゆうかたんにゃんお姉さん」という一見奇妙な表現も、二人の間に紡がれた特別な意味を持っているのかもしれない。

 以上のように考えるなら、佐藤すみれと浅井裕華の関係性は、単なる個人的な感情の問題ではなく、SKEという共同体の中で育まれた、存在論的な絆だと言えるだろう。それは、アイドルグループという特殊な世界の中で、人間の本来的な在り方を開示する営みなのだ。

 佐藤すみれは、自らのアイドル人生の終わりを迎えようとしている。しかし、彼女が浅井裕華に託した思いは、SKEの未来へと受け継がれていくはずだ。二人の絆は、単なる個人的な思い出ではなく、グループの歴史を紡ぐ一本の糸なのだ。

 私たちは、このような関係性の中に、アイドルの本質的な意味を見出すことができるのではないだろうか。それは、単なる娯楽やビジネスを超えた、人間存在の深淵に触れる営みなのだ。佐藤すみれと浅井裕華の物語は、そのような営みの一つの結晶だと言えるだろう。

佐藤すみれと浅井裕華とデリダ

 まず、「ゆうかたんにゃんお姉さん」という言葉は、一種の「パフォーマティブ」な言明として機能している。デリダは、言葉が現実を記述するだけでなく、言葉の発話それ自体が現実を構築する力を持つことを指摘した。「お姉さん」という言葉は、佐藤と浅井の関係性を規定し、創出しているのだ。しかし同時に、その言葉は、「妹系ではない」という佐藤の認識とは矛盾している。ここには、言葉の持つ「differance(差延)」の運動、つまり意味の決定不可能性と差異の生成が見て取れる。

 また、佐藤が浅井を「甘いお菓子に見える」と表現することは、メタファーの問題を提起している。デリダは、メタファーが言語の本質的な働きであると同時に、その恣意性を隠蔽する装置でもあると論じた。お菓子のメタファーは、浅井のイメージを固定化し、「かわいい」存在として規定する。しかし、そのメタファー自体が恣意的な構築物であることは隠されている。

 さらに、佐藤が浅井の努力や真面目さを評価することは、アイドルの「実力主義」という言説を反復している。しかし、デリダが「イテラビリティ(反復可能性)」の概念で示したように、言説の反復は、常にその意味の差異化を孕んでいる。佐藤の言葉は、浅井の実力を称揚すると同時に、アイドルの評価基準それ自体の恣意性を露呈させずにはいられない。

 ただし、佐藤の行為を単に言説の反復として還元してしまうことはできない。デリダは、脱構築の実践が、既存の言説を解体すると同時に、新たな意味の生成の契機となることを強調した。佐藤が浅井を「かわいがる」ことは、アイドルの関係性やイメージをめぐる固定観念を揺るがし、新たな可能性を切り拓く営みとして捉えることができるだろう。

 重要なのは、佐藤と浅井の関係性を一義的に規定するのではなく、そこに働く言語の力学を解き明かすことだ。「ゆうかたんにゃんお姉さん」という言葉に佇みつつ、そこに内在する差延や矛盾、メタファーの恣意性を浮き彫りにすること。そうした脱構築の実践を通して、私たちはアイドル同士の関係性や、アイドルのイメージが構築される過程を問い直すことができる。

 佐藤すみれが浅井裕華をかわいがるという行為は、アイドル文化におけるイメージや関係性の生成を考察する上で、格好の素材となる。そこには、言葉の持つ力と、その力を揺るがす契機が同居している。佐藤と浅井の関係性に佇みつつ、そこに働く言語の力学を解き放つこと。それこそが、デリダの思想がこの事例に投げかける問いなのかもしれない。私たちに求められるのは、アイドルをめぐる言説を鵜呑みにするのではなく、絶えずその意味を問い直し、新たな可能性を模索していくことなのだ。

浅井裕華

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