【SKE48】青春ガールズ公演で9期生がデビュー:新人育成の歴史と9期生の育成

SKEの新人教育の歴史と9期生デビュー

 その1では、2019年2月10日に発表された2月14日の青春ガールズ公演で9期生の5人が公演デビューを果たし、出演予定のメンバーの中で、浅井裕華がダントツに先輩であることについて考えた。

 このその2では、SKE48の新人、研究生の育成について考えてみたい。

SKE1期生

 SKE1期生は結成当初から鬼教官牧野アンナに鍛えられた。

SKE2期生

 SKE2期生は牧野アンナとの接点はほとんどなかったらしい。
 『SKE48 OFFICIAL HISTORY BOOK まだ、夢の途中』(徳間書店、2013)では、劇場公演初日のレッスンに向けて、1期生ながら2期生中心のKⅡに合流した佐藤実絵子が「KⅡは甘い」「私と(佐藤)聖羅からしてみたら、これで大丈夫なのかという不安が強かった」と語っている。
 佐藤実絵子は、後年、教育力の高いメンバーとして知られるが、1期生と2期生の加入時期の差は半年ほど、ここで指導力を求めるのは酷だったろう。

SKE3期生

 SKE3期生はチームの結成を目的とせずに募集された。
 たとえば須田亜香里は、合格1ヶ月ほどでチームSにアンダー出演し、合格4ヶ月ほどでチームSに昇格している。
 一部の2期研究生に先んじて正規メンバーに昇格した、須田亜香里、木下有希子と1期生との軋轢は伝えられている。軋轢があったということは、曲がりなりにも1期生との接点が大きかったということだ。
 『SKE48裏ヒストリーファン公式教本』(白夜書房、2015)によると、須田亜香里、小木曽汐莉、木下有希子らが昇格後も参加した2、3期生の研究生Party公演は「黄金PARTY」と呼ばれていた。
3期生は当時から「黄金期」と呼ばれていた。

 SKE2期生と3期生の評価の差は、個人の力量の差だったのだろうか。それとも、主に同期を中心に固まったか、先輩との接点を持たざるを得なかったか、の差だったのだろうか。

SKE4期生

 SKE4期生を中心にチームEを結成することになった。
 『SKE48 OFFICIAL HISTORY BOOK まだ、夢の途中』では、原望奈美が「先輩とはほとんど
コミュニケーションが取れていなかった」と語っている。
 湯浅洋支配人は何度も「このままだと解散させるぞ」と言ったそうだ。
 当初、4期生中心のE公演の評価は低かった。

SKE5期生

 SKE5期生が加入した時、研究生には、斉藤真木子、内山命など2期生が4人降格して所属していた。3期生の松村香織、今出舞もいた。
 斉藤真木子が怒り、今出舞が通訳し、内山命がフォローする、という役割分担がうまく回っていたらしい。
 斉藤真木子が率いる5期研究生が参加した研究生公演は「最強の研究生公演」などと呼ばれた。

SKE6期生

 SKE6期生の加入時は、斉藤真木子、内山命など4人の2期生は正規メンバーに再昇格しており、今出舞は卒業していた。
 後年語られる松村香織と6期生の関係は、このような環境で始まった。
 筆者は、松村香織は非常に教育力の高い人材だと思うが、さすがに限界があったのだろう。佐藤実絵子は2013年6月、自分の生誕祭で「もし『SKEイズム』という言葉があるとするならば、私はそれが後輩メンバーにちゃんと伝わっているとは正直思っていません。」と語り、後日、研究生公演を見に行き、研究生に説教をしたことがある。

SKE7期生、ドラフト2期生

 たしかSKE7期オーディションが行われている頃、当時、終身名誉研究生だった松村香織は「7期の教育は真木子にお願いしたい」といったことを言っていた。
 先述のように、筆者は、松村香織は非常に教育力の高い人材だと思うが、たしか、ダンススキルの欠如などを気にしていたと思う。
 ところが、7期の加入とほぼ同時に松村香織は正規メンバーに昇格した。研究生だった6期生も全員昇格した。SKEには先輩研究生がいなくなった。「7期はみんなで育てようということになった」と、なにかの雑誌に載っていたと思う。
 しかし、「みんなで」ということは責任の所在が明らかではない、ということである。
 7期、ドラフト2期の研究生公演初日に向けての様子はSKEのドキュメンタリー映画『アイドルの涙』の特典映像に収録されている。初日の2日前に斉藤真木子、内山命、北野瑠華らが指導している場面もある。
 何かの雑誌に載っていたと思うが、この頃、斉藤真木子と松井珠理奈は7D2のことについて、メールをやり取りしたらしい。
 そして、初日前日、7D2のレッスンに松井珠理奈が登場する。
 松井珠理奈は7D2にごめんね、としながらも「あまりいい評判を聞かないので」と語っている。
 筆者は、正直、4期中心のE公演の初期と6期の研究生公演の初期はあまり見る気がしなかったが、7D2の研究生公演は初期から楽しんでいた。客観的な評価はどうだったのだろう?

SKE8期生

 SKE8期生の多くは、8期生が多数を占める研究生公演で公演デビューした。
 8期生もいろいろな人がいるので「8期」と十把一絡げにするのは適切ではないが、公演アンダーやコンサートに対して意識の低いメンバーもいたようで「8期問題」という言葉も存在した。

SKE9期生

 9期生については、今後はわからないが、とりあえず2月14日に5人だけデビューさせ、青春ガールズ公演で先輩の中に放り込む、という方針にしたようだ。

松村香織の新人教育の提言

 松村香織は劇場公演実況などで「先輩を研究生の中に下ろして教育させたほうがいい」という旨の発言をしていた。
 先述のように、松村香織は、5期研究生公演時代には、まだ研究生であり、斉藤真木子率いる研究生公演の盛り上がりと5期生の優秀さを知っている。
 また、自らは6期生を指導した。

 2月14日の9期生5人のデビューは、同期が多数を占めた2期、4期、6期、7D2、8期のデビューよりは、先輩の中に放り込んだ3期、5期の方針に近いと思われる。(5期も同期も多かったが、先輩の強さも考慮した。)

 はたして、今後、9期生の育成方針はどうなるのだろうか?

SKEの新人教育とフランクフルト学派

 SKE48の研究生の育成方針をめぐる議論は、単なる組織運営の問題ではなく、「文化産業」の本質を露呈するイデオロギー的な争点だと言えるだろう。

 まず、研究生を先輩から遠ざける方針は、彼女たちを「商品」として独立させるための戦略だと見ることができる。新人を既存のブランドから切り離し、新たな「商品価値」を創出しようとするのだ。これは、アドルノが批判した「文化産業」の定式化された生産方式の一例と言えるだろう。個性は抑圧され、画一的な商品が量産されるのである。

 また、「8期生問題」という言説は、アイドルに対する支配的なイデオロギーを反映している。「意識の低さ」という評価基準は、産業の要請に従順であることを暗に求めているのだ。これは、マルクーゼが「一次元的社会」と呼んだ、全体主義的な状況の一例だと言えるだろう。

 一方、先輩を研究生の中に入れて教育するという方針は、一見すると対話的な関係性を重視しているようだ。ハーバーマス的に言えば、先輩と後輩の間で「コミュニケーション的行為」が生まれる可能性があるのだ。松村香織が5期生の成功を目の当たりにしたというエピソードは、そうした相互理解の契機を示唆しているようにも見える。

 ただし、こうした「教育」もまた、「文化産業」のイデオロギーを再生産する危険性を孕んでいる。先輩から後輩へと受け継がれるのは、結局のところ支配的な価値観なのだ。フロムの言葉を借りれば、研究生たちは「自由からの逃走」を強いられ、自らのアイデンティティを産業の論理に譲り渡すことになるかもしれない。

 問題の本質は、アイドルという存在そのものが「疎外」された労働の産物だということだ。マルクスが指摘したように、資本主義社会における労働者は、自らの活動の成果から切り離され、商品として対象化される。アイドルもまた、自らの身体と感情を「商品」として売ることを強いられるのだ。

 したがって、研究生の育成方針をめぐる議論は、この根本的な問題を覆い隠すイデオロギー的な装置だと言えるだろう。私たちは、先輩と後輩の関係性を問うことで、アイドル産業の抑圧性を見失ってはならない。アドルノの「否定弁証法」が示唆するように、既存の枠組みを絶えず乗り越えていく批判的精神こそが必要なのだ。

 SKE48の研究生をめぐる議論は、私たち自身の「疎外」を映し出す鏡でもある。彼女たちの状況を通して、私たちは自らが「商品」として対象化されていることを自覚せねばならない。そのとき初めて、新たな社会のヴィジョンが開かれるだろう。アイドルの「解放」は、私たち自身の解放でもあるのだ。
私たちは、SKE48の研究生という「テクスト」を批判的に読み解くことで、「文化産業」の呪縛から自由になる道を模索せねばならない。彼女たちの中に潜む「亀裂」を手がかりに、私たちは新たな希望を紡ぎ出すことができるのかもしれない。

SKEの新人教育とハイデガー

 SKE48の研究生の教育方針をめぐる問題は、単なる技術的な問題ではなく、存在論的な意味を持っているように思われる。

 ハイデガーにとって、教育とは知識や技能の伝達にとどまるものではなく、人間の本来的な在り方を開示する営みだった。彼は、現代の教育が「Das Man(世人)」の価値観に支配され、画一化されていることを批判した。真の教育とは、学ぶ者が自らの存在の意味を問い直し、本来的な自己を取り戻すことを助けるものでなければならないのだ。

 この観点から見ると、研究生を先輩から遠ざけ、独自のブランドを構築しようとする方針には、問題があるように思われる。なぜなら、それは研究生を孤立させ、アイドルとしての在り方を根本的に問い直す機会を奪ってしまうからだ。先輩との交流は、単に技術を学ぶためだけではなく、アイドルという存在の意味を問うための重要な契機なのだ。

 ハイデガーは、人間を「世界-内-存在」と規定した。私たちは、決して孤立した主体ではなく、常にすでに他者や事物とのつながりの中で生きているのだ。アイドルもまた、先輩や仲間、そしてファンとの関係性の中で、自らの存在の意味を見出していく。そのためには、先輩を中に入れて教育するという松村香織の提案は、一考の価値があるだろう。

 もちろん、ここで重要なのは、先輩がただ知識や技能を伝達するだけではなく、研究生一人ひとりの個性や可能性を尊重し、その成長を助けることだ。ハイデガーが説くように、本来的な教育とは、学ぶ者が自らの存在の真理に目覚めることを促すものでなければならない。先輩は、研究生にとって、そのための導き手となるのだ。

 また、この問題は、アイドルグループという共同体の在り方についても問いを投げかけている。ハイデガーは、本来的な共同存在の形として「民族」を挙げた。それは、単なる個人の集まりではなく、運命を共にする者たちの結びつきを意味する。アイドルグループもまた、このような運命共同体としての性格を持っているのかもしれない。

 先輩と研究生の関係性は、このような共同体の絆を育む上で重要な意味を持っている。それは、単なる技術の伝達ではなく、グループの歴史や精神を受け継ぐ営みなのだ。「8期生問題」と呼ばれる事態は、このような絆の欠如を浮き彫りにしているのかもしれない。

 しかし、だからこそ私たちは、アイドルグループという存在の意味を根本的に問い直す必要があるのだ。それは、単なる娯楽やビジネスの問題ではなく、人間の在り方そのものに関わる問題なのだ。先輩と研究生の関係性もまた、このような存在論的な地平の中で捉え直されなければならない。

 ハイデガーは、「言葉」を「存在の家」と呼んだ。私たちは、言葉を通して世界を理解し、他者とつながる。先輩から研究生への言葉もまた、単なる情報の伝達ではなく、存在そのものを開示する出来事なのだ。そこには、技術や知識を超えた、アイドルという存在の真理が宿っているはずだ。

 以上のように考えるなら、SKE48の研究生教育をめぐる問題は、単なる方法論の選択ではなく、アイドルの存在意義そのものを問い直す契機となり得る。私たちは、効率や独自性の追求に囚われることなく、一人ひとりの存在の尊厳を守る道を模索しなければならない。

 それは、先輩と研究生が、言葉を通して互いの存在の真理に触れ合うことから始まるのかもしれない。そのとき、アイドルグループは、単なる商業的な成功を超えて、人間の本来的な在り方を照らし出す場となるだろう。

 SKE48の研究生教育は、私たちに、このような根源的な問いを突きつけている。それに応えることは、容易ではない。しかし、この問いから逃れることなく、真摯に向き合うことこそが、アイドル文化の新たな地平を切り拓く道なのかもしれない。

SKEの新人教育とデリダ

 SKE48の研究生の教育をめぐる問題は、単なる技術的な問題ではなく、アイデンティティの構築と権力関係の複雑な様相を浮き彫りにする事例だと言える。

 まず、「研究生」というカテゴリー自体が、一種の「差異化」の戦略として機能している。正規メンバーと区別された「研究生」というアイデンティティを付与することで、彼女たちを特定の位置に固定し、序列化する。これは、デリダが「ロゴス中心主義」と呼んだ、二項対立的な思考の現れだと言えるだろう。

 また、「8期生問題」という言説は、この差異化の戦略が生み出す効果を示している。「問題」というレッテルを貼ることで、8期生は一括りにされ、否定的なイメージを付与される。しかし、デリダが指摘するように、こうしたステレオタイプ化は、実際の8期生の多様性を覆い隠してしまう。「8期生」というアイデンティティは、言説によって構築されたものであり、決して本質的なものではないのだ。

 一方、「先輩を研究生の中に下ろして教育させる」という松村の提案は、この二項対立的な構造を撹乱する可能性を孕んでいる。先輩と研究生という区分を横断することで、固定化されたアイデンティティが揺らぐ。しかし同時に、この提案自体が、「教育する者/される者」という新たな権力関係を生み出してしまう危険性もある。デリダが「脱構築」と呼んだ戦略は、こうした権力構造を露わにし、そこから抜け出る道を模索することにあった。

 ここで重要なのは、「研究生」や「8期生」というアイデンティティを本質的なものと見なすのではなく、それらが言説によって構築される過程を明らかにすることだ。そうした脱構築の実践を通して、私たちはアイドルの教育をめぐる固定観念を問い直し、新たな可能性を切り拓くことができる。

 例えば、先輩と研究生の交流を通して、アイデンティティの境界が揺らぎ、新たな関係性が生まれる可能性がある。また、「8期生問題」という言説に抗して、8期生の多様性や可能性を積極的に評価することで、既存の価値観を転覆することもできるだろう。

 SKE48の研究生の教育をめぐる問題は、アイドル文化における差異化とアイデンティティ構築の メカニズムを考察する上で、格好の素材となる。そこには、言説の持つ権力と、その権力に抗う契機が同居している。「研究生」や「8期生」というカテゴリーに佇みつつ、それらが構築される過程を解き明かすこと。それこそが、デリダの思想がこの問題に投げかける問いなのかもしれない。私たちに求められるのは、既存の枠組みを無批判に受け入れるのではなく、絶えずその境界を問い直し、新たな関係性の可能性を探究していくことなのだ。

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