【SKE48】松井珠理奈の兼任開始を北川綾巴の兼任解除で思い返す

AKBで組閣 北川綾巴の兼任解除

 2017年12月8日、秋葉原を本拠地とする国民的アイドルグループAKB48が組閣を行ったとのニュースが飛び込んできました。この組閣の一環として、姉妹グループからの兼任メンバー全員に対する兼任解除が発表され、その報告がファンの間で駆け巡りました。

 その中で、SKE48から兼任していたメンバー、北川綾巴がその対象となりました。ファンからは「綾巴たんお帰り!」という歓迎の声が上がっている一方で、彼女自身にとっては、兼任していた方がキャリア的に有利だったかもしれない、という疑問が浮かんできます。AKB48関係のなんらかのゲームイベントにおいて、彼女がランクインを果たしたことを考えると、その疑問はさらに深まります。

兼任の元祖、松井珠理奈

 さて、姉妹グループ間での兼任がいったん終了したという今回の報告を受け、一部のファンの間では、兼任制度の元祖とも言える松井珠理奈の兼任発表が改めて振り返られる機会となった。それはまだ彼女が中学3年生だった2012年3月24日の出来事だった。

 2012年1月25日に発売されたSKEのシングル「片想いFinally」の曲名が発表されたのは、いつだっただろうか。私は即座に松井珠理奈のAKB移籍を覚悟した。SKE推しの驕りかもしれないが秋元康氏の松井珠理奈への片想いが松井珠理奈の中学卒業とともに、ついに終わるのではないかと。
 歌詞を少し見てみよう。

「君はこんなに近いのに 僕は遠くを眺めてる」

「好きなんだ君が好きなんだ 初めて会った瞬間から 記憶の中の誰より はっとして強く惹かれた」

「今までずっと隠してた 今日こそは立ち上がって 告白しようかFinally」

「君のまわりの友達は みんなあきれているけれど 僕は一歩だって引かない」

「空気を読んで抑えてた 感情を今曝け出す 僕の愛しさはFinally」

「YesかNoかのAnswerよりも ずっと胸に貯めてた 君への愛しさをついに解禁だ」

 あくまでも根拠のない個人的な邪推に過ぎないが、私は、松井珠理奈への移籍の打診は以前からあって、松井珠理奈はSKEとしてのアイデンティティから断っていたのではないかと思う。あくまでも根拠のない個人的な邪推ですよ。
 その落とし所が「兼任」という新たな制度の創設だった。

 SKE推しとして、兼任という制度をも作り上げてしまう松井珠理奈は誇らしい。彼女自身、昨年のSKEソロコン前のSHOWROOMで、ソロコンはAKBグループ初の試みで「パイオニアであることを誇りに思う」と語っている。
 が、その代償は大き過ぎた。兼任発表があったSSA(さいたまスーパーアリーナ)コンサートの映像のメイキングに収録されているのだが、松井珠理奈は発表後、医務室に運ばれ、その後入院してしまう。

 約20日後の4月14日、SKEの名古屋ガイシホールでのコンサートにて『枯葉のステーション』でサプライズ復帰。

松井珠理奈の兼任先、AKBでの配慮

 6月1日には、もう1人の兼任者に先駆け、兼任先のチームK公演に出演した。この時、キャッチを「体育会系チームK唯一のJK!」と変えている。
 AKB選抜としてAKBファンになかなか受け入れてもらえなかった松井珠理奈は、彼女なりに
気を使ったのだと思う。韻を踏んでいるのは当時ダジャレが得意だった彼女の語学的センスだろう。

 そして勢いの良いキャッチ後の客席の拍手喝采に涙する松井珠理奈。客観的に冷静に見るとここで涙まで見せるのは不自然だ。しかし、先述のように、彼女にはAKB選抜としてファンになかなか受け入れてもらえなかったトラウマがある。実際に、RESET公演終盤の「感想」のコーナーで指名された松井珠理奈は「暖かく迎えてくださって、ありがとうございます」「珠理奈もチームKだと、しっかり認めていただけるように、これからもがんばっていきたいと思います」と語っている。

 本記事の筆者は公演のポジションには詳しくないが、この日の松井珠理奈はおそらく、かなり序列の低いポジションだった。不在だったエース大島優子のポジションは、おそらく、同姓のメンバーがアンダーを務めていた。これは「大人」達が、チームKファンのアレルギーを少しでも和らげるための配慮だっただろう。

 余談。
 AKBのDMMには、当時、公演後コメントのコーナーがあり(今は知りません(笑)。)この日は、秋元才加さん、宮澤佐江さんと松井珠理奈が出ていました。
 当時の松井珠理奈は、SKEを率いている時は硬い表情をしていることが多い印象でした。
 でも、このコーナーの珠理奈は、頼れる先輩に挟まれてとても柔和な表情をしていたのが印象的です。

松井珠理奈のAKB兼任とキルケゴール

 松井珠理奈は、SKE48というグループに所属しながら、AKB48への兼任という新たな道を選択した。これは、キルケゴールが提唱した「実存主義」の観点から見ると、彼女自身の主体的な決断であり、自己実現への飛躍であったと言えるだろう。既存の枠組みにとらわれず、自分の可能性を追求する姿勢は、まさに実存主義的な生き方の表れだ。

 しかし、この決断は同時に、不安と絶望を伴うものでもあったはずだ。SKE48というグループにおける自分の位置づけや、ファンとの関係性など、様々な要素を考慮しながら、新たな道を模索する過程で、彼女は内面的な葛藤を経験したことだろう。キルケゴールは、このような不安や絶望こそが、自己認識と成長のきっかけになると考えた。

 また、兼任という選択は、主体性と客体性の対比を浮き彫りにするものでもある。SKE48という客体的な枠組みの中で活動しながらも、AKB48への兼任という主体的な決断を下したことで、松井珠理奈は自分の内面性を重視し、外面的な社会規範との対峙を示したのだ。

 さらに、このような決断には、信仰のパラドックスも見て取れる。合理的な判断だけでは説明しきれない、個人的な決意と飛躍が必要とされたのではないだろうか。キルケゴールは、信仰とは理性では完全に理解できないパラドックスであると主張したが、松井珠理奈の兼任という選択にも、そのような側面があったと言えるかもしれない。

 松井珠理奈は、SKE48という自分の拠り所であるグループから、AKB48への兼任という新たな挑戦に踏み出した。これは、キルケゴールが提唱する「実存の段階」における「倫理的段階」から「宗教的段階」への飛躍に例えることができる。SKE48での活動に安住するのではなく、自己の可能性を信じ、未知の領域に踏み込む決断は、主体的な選択であり、自己実現への道筋を示すものだ。

 しかし、この選択は同時に、不安と絶望を伴うものでもあった。AKB48のファンに受け入れられるかどうかという不安、自分の居場所を見つけられるかどうかという絶望。これらの感情は、キルケゴールが重視した「不安」と「絶望」の概念に通じるものがある。彼は、これらの感情こそが、自己認識と成長のきっかけになると考えた。松井珠理奈は、この不安と絶望に向き合いながら、新たな環境に適応していく過程で、自分自身と向き合い、内面的な成長を遂げていったのではないだろうか。

 また、AKB48での配慮や涙の理由に、「真理の主観性」を見出すことができる。客観的に見れば不自然に映る行動も、松井珠理奈にとっては切実な思いの表れだったのだ。キルケゴールは、真理が個人の主観的な経験と関係していると考え、客観的な真理よりも主観的な真理を重視した。松井珠理奈の行動や感情は、彼女自身の主観的な真理を反映している。

 さらに、AKB48運営側の配慮は、「間接伝達」の一種と捉えることができる。キルケゴールは、直接的な伝達ではなく、間接的な伝達を通じて、人々に自己反省を促すことを重視した。運営側は、松井珠理奈の立場を尊重しつつ、ファンの反応を和らげるための工夫を凝らしたのだ。この間接的なアプローチは、松井珠理奈とファンの両者に、自分自身と向き合う機会を提供したと言えるだろう。

 結論として、松井珠理奈のAKB48への兼任は、キルケゴールの実存主義的思想を体現する出来事であったと言える。不安と絶望に立ち向かい、主体的な選択を行うことで、彼女は自己実現への道を歩み始めた。そして、その過程で直面した困難や感情は、彼女の内面的な成長を促す要因となったのだ。このような経験は、現代社会において、個人の主体性や内面性が重視される中で、大きな意義を持つものだと考えられる。

松井珠理奈のAKB兼任とフランクフルト学派

 フランクフルト学派の視点から見れば、松井珠理奈のAKB48との兼任は、アイドル産業という「文化産業」の病理を象徴する出来事だと言えるだろう。

 まず、松井の兼任は、彼女の個人的な意思や感情とは無関係に、秋元康という「作者」の意図によって決定された。「片想いFinally」の歌詞は、松井への秋元の欲望を露骨に表現しており、彼女はその欲望の客体に過ぎない。アドルノが指摘したように、文化産業においては、個人の主体性は抑圧され、作り手の意図に従属させられるのだ。

 また、兼任という制度自体が、アイドルをあたかも商品のように扱う、文化産業の非人間性を示している。姉妹グループ間を自在に移動させられる松井は、まるで交換可能な部品のように扱われている。これは、マルクーゼが批判した「一次元的社会」における人間疎外の典型例と言えるだろう。

 さらに、兼任発表の「サプライズ」演出は、ショック療法的な刺激によって大衆の感情を操作する、文化産業の戦略を示している。松井の動揺や医務室行きは、ファンの感情を煽るための「演出」として利用された。アドルノとホルクハイマーが『啓蒙の弁証法』で論じたように、理性を標榜する啓蒙主義は、逆説的に大衆の非理性を助長する mythology に転化するのだ。

 ただし、こうした批判は、松井個人の責任を問うものではない。むしろ、彼女自身が疎外と抑圧の犠牲者だと言えるだろう。フロムの言葉を借りれば、彼女は「自由からの逃走」を強いられ、自らのアイデンティティを産業の論理に譲り渡さざるを得ないのだ。

 問題は、こうした事態を生み出す社会構造そのものにある。ハーバーマスが指摘するように、現代社会においては、「システム」の論理が「生活世界」を植民地化し、コミュニケーション的行為を阻害している。アイドル産業は、その典型例と言えるだろう。

 しかし、だからこそ、松井珠理奈の兼任をめぐる議論は、単なるアイドルゴシップにとどまらない、批判理論の格好の素材なのだ。それは、「否定弁証法」的な思考、つまり、既存の文化や価値観を絶えず乗り越えていく批判的精神を喚起する。私たちは、松井の経験を通して、現代社会の病理を読み取り、それを克服するヴィジョンを模索せねばならない。その意味で、彼女の兼任は、アイドル産業の矛盾を乗り越える契機となるかもしれないのだ。

 松井珠理奈のAKB48との兼任は、「文化産業」の支配的なイデオロギーを再生産する過程だと言えるだろう。

 まず、「体育会系チームK唯一のJK!」というキャッチフレーズは、アイドルの「商品化」を象徴している。松井の個性は、「JK(女子高生)」という記号に還元され、消費者の欲望を煽るために利用される。これは、アドルノが批判した「文化産業」の定式化された言語の典型例だ。

 また、松井の感情的な反応(涙)は、「作られた個性」の一部として演出されている。彼女の涙は、ファンの共感を得るための「商品」なのだ。ホルクハイマーとアドルノが指摘したように、文化産業は大衆の感情を操作し、疑似的な満足を与えることで、現状への批判意識を麻痺させる。

 さらに、松井が「チームKだと、しっかり認めていただける」と語るのは、支配的なイデオロギーへの同化を示している。彼女は、AKBという「システム」に自らを適応させ、その価値観を内面化することを求められる。これは、マルクーゼが「一次元的社会」と呼んだ、異議申し立ての余地のない全体主義的な状況だ。

 ただし、松井の「トラウマ」は、こうしたイデオロギーの抑圧性を暴露するものでもある。彼女は、ファンに受け入れられないことへの恐怖から、自由な表現を抑圧せざるを得ない。フロムの言葉を借りれば、これは「自由からの逃走」の一種だ。

 問題は、こうした抑圧的な状況を生み出す社会構造そのものにある。ハーバーマスが指摘するように、「システム」の論理が「生活世界」を植民地化し、個人の主体性を奪っているのだ。アイドル産業は、その極端な例と言えるだろう。

 しかし、だからこそ、松井珠理奈の経験は、現代社会の病理を浮き彫りにする批判理論の格好の素材なのだ。私たちは、彼女の「トラウマ」を通して、イデオロギーの抑圧性を認識し、それに抵抗する契機を見出さねばならない。アドルノの「否定弁証法」が示唆するように、既存の価値観を絶えず乗り越えていく批判的精神こそが、変革の原動力となるのだ。

 その意味で、松井珠理奈の兼任は、アイドル産業の矛盾を露呈する「亀裂」だと言えるかもしれない。私たちはその亀裂に光を当て、新たな社会のヴィジョンを切り拓いていかねばならないのだ。そのときこそ、彼女の涙は、抑圧からの解放を告げる希望の涙となるだろう。

松井珠理奈のAKB兼任とデリダ 

 松井珠理奈のAKB48との兼任は、アイドル業界における「差延(différance)」の運動を体現する出来事として読み解くことができる。

 まず、兼任という制度そのものが、アイドルのアイデンティティをめぐる二項対立を撹乱するものだ。SKE48とAKB48という二つのグループは、それぞれ固有のアイデンティティを持つものとして想定されている。しかし、兼任という実践は、その境界を曖昧にし、アイデンティティの非本質性を露呈させる。松井珠理奈は、SKE48とAKB48という二つのアイデンティティを同時に引き受けることで、アイドルという主体の脱構築を体現しているのだ。

 また、兼任の発表が「サプライズ」として演出されたことも、「現前の形而上学」への批判として読み取ることができる。サプライズとは、何かが突如として現前することを意味する。しかし、デリダが指摘するように、現前は常に差延の運動の中で生成されるのであり、純粋な現前などありえない。兼任という出来事は、そのような現前の幻想を撹乱し、意味の不確定性を浮き彫りにするのだ。

 さらに、松井珠理奈が医務室に運ばれたというエピソードは、兼任という出来事の「薬/毒(pharmakon)」としての両義性を示唆している。兼任は、アイドルの可能性を拡張すると同時に、彼女たちを過剰な負担にさらす。それは、彼女たちにとって「薬」であると同時に「毒」でもあるのだ。このエピソードは、兼任という出来事のアポリア(答えが見つからないパズルのような哲学的問題)を劇的に表現していると言えるだろう。

 ただし、松井珠理奈の兼任には、脱構築の可能性も潜んでいる。例えば、「片想いFinally」の歌詞は、恋愛感情というプライベートな領域を公的なものとして表出する。それは、公私の区分を解体し、新たな表現の可能性を切り開くものだ。

 重要なのは、松井珠理奈の兼任をめぐる言説を単純に評価するのではなく、そこに潜む差延の運動を辿ることだ。兼任という出来事は、アイドルのアイデンティティや表現をめぐる言説が交錯する場である。そこでは、様々な二項対立が解体され、再構築される。私たちに求められるのは、その複雑なダイナミズムを辿りながら、新たなアイドルの可能性を模索していくことなのだ。

 松井珠理奈の兼任は、デリダ的な脱構築の格好の素材となる。アイデンティティや現前、公私といった概念を解体し、それらが生成される過程を辿ること。そうした営みを通して、私たちはアイドルという存在の意味を問い直し、より豊かな表現の可能性を探究していくことができるはずだ。

 松井珠理奈がAKB48のファンに受け入れられるために「体育会系チームK唯一のJK!」というキャッチフレーズを用いたことは、「iterability(反復可能性)」の問題を提起している。キャッチフレーズの反復は、そのアイデンティティを強化すると同時に、常にその意味のズレを生み出す。「体育会系」や「JK」といった言葉は、松井珠理奈というアイドルのイメージを固定化しようとする一方で、その言葉自体が様々な文脈の中で反復され、その意味を絶えず差延させているのだ。

 さらに、松井珠理奈の感想コメントや、AKB48運営の「配慮」は、アイドル産業における権力関係の複雑さを物語っている。松井珠理奈は、ファンの受け入れを懇願し、自らを「チームK」の一員として認めてもらおうとする。しかし、その一方で、運営は彼女を「かなり序列の低いポジション」に置くことで、ファンの「アレルギー」に配慮する。ここには、アイドルとファン、そして運営の間の複雑な力学が見て取れる。アイドルは、ファンの欲望を充足させると同時に、運営の戦略に従属させられるのだ。

 ただし、こうした状況は、アイドルの主体性を完全に否定するものではない。デリダが「脱構築」という戦略で示したように、支配的な言説の中には、常にそれを揺るがす契機が潜んでいる。松井珠理奈の涙は、彼女が置かれた状況の不安定さを表すと同時に、そこから新たな可能性を切り開く力を秘めているのかもしれない。彼女のパフォーマンスは、アイドルのアイデンティティや、ファンとの関係性を問い直す契機となりうるのだ。

 松井珠理奈のAKB48との兼任は、アイドル産業の複雑な権力構造を浮き彫りにすると同時に、そこから抜け出す可能性を示唆している。彼女の実践は、固定されたアイデンティティを解体し、新たな主体性の形成に向けた、絶え間ない運動として捉えることができるだろう。それは、デリダが「脱構築」と呼んだ、既存の枠組みを揺るがし、新たな思考の地平を切り拓く営みにほかならない。

 松井珠理奈というアイドルに佇みつつ、そこに内在する差延や反復可能性、権力関係の力学を解き放つこと。そうした脱構築の実践を通して、私たちはアイドルという存在の意味を問い直し、より豊かな可能性を探究していくことができるはずだ。それこそが、デリダの思想が松井珠理奈の兼任という出来事に投げかける問いなのかもしれない。

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