アンバサダー就任インタビューと「賛否両論」
ご存知のように、松井珠理奈は2018年1月4日の新日本プロレス東京ドーム大会のスペシャルアンバサダーに就任した。
その関係のインタビューの後編がこちらで、その見出しが上記ツイートだ。
「賛否両論あっても話題になればいい」
秋元康氏は、そもそも、かつてから賛否両論が出ないようではダメだという考えだと思う。予定調和を壊す。同じことをしていては7掛けで衰退してゆく。アンバサダー就任インタビューでそのような趣旨のことは何度か述べているはずだ。
「賛否両論」とは、物事に対して肯定的な意見と否定的な意見が同時に存在する状況を指す。賛否両論が起こる背後には、その話題が大衆の関心を集め、感情を揺さぶる力があるからだと言える。それは、ある意味でメディアの力を最大限に引き出す戦略とも言える。
松井珠理奈のアンバサダー就任とフーコー
フーコーは、権力が個人の身体に直接的に働きかけ、それを管理・統制していくことを「生政治」と呼んだ。松井珠理奈のスペシャルアンバサダー就任は、アイドルとプロレスという二つの領域を横断する「生政治」的な実践だと解釈できる。アイドルの身体がプロレスの世界に導入されることで、両者の境界が曖昧になり、新たな権力関係が生み出されている。
また、フーコーは、主体の構築という観点から、個人が自らを特定の主体として認識するプロセスに注目した。松井珠理奈のアンバサダー就任は、彼女自身のアイデンティティを再構築する契機になっていると言える。アイドルとしてのアイデンティティにプロレスという新たな要素が加わることで、松井珠理奈は自らを異なる主体として認識し始める。それは、アイデンティティの流動化や複数化を示唆する出来事だと解釈できる。
さらに、フーコーは、言説が現実を構築する力を持っていると論じた。松井珠理奈のアンバサダー就任をめぐる言説は、アイドルとプロレスの関係性を新たに定義づけるものだと言える。それは、両者の結びつきを自然化し、正当化する働きを持っている。この言説は、アイドルとプロレスという二つの文化的領域の境界を再編し、新たな現実を生み出していく力を秘めている。
ただし、フーコーの視点からすれば、松井珠理奈のアンバサダー就任は、規律訓練の一形態でもある。アイドルの身体がプロレスという競技の論理に従属させられ、新たな規律のシステムに組み込まれていくことを意味している。それは、アイドルとしての松井珠理奈の主体性を限定し、特定の方向へと導いていく力を持っている。
しかし、フーコーは、権力関係が常に抵抗の可能性を孕んでいることも指摘した。松井珠理奈のアンバサダー就任は、既存のアイドル像やプロレスの在り方に対する抵抗の契機にもなり得る。それは、両者の関係性を固定的なものではなく、流動的で可変的なものとして捉える視点を提供してくれる。松井珠理奈の実践は、アイドルとプロレスの新たな可能性を切り拓く試みとして評価することもできるでだろう。
松井珠理奈の新日本プロレス東京ドーム大会のスペシャルアンバサダー就任は、アイドルとプロレスという二つの領域を横断する「生政治」的な実践であり、彼女自身のアイデンティティを再構築する出来事だと言える。それは、両者の関係性を新たに定義づける言説の力を持っていると同時に、規律訓練の側面も内包している。しかし、フーコーの思想は、このような権力関係に抵抗し、代替的な可能性を模索するための洞察を提供してくれる。私たちは松井珠理奈の実践を固定されたものとして受け止めるのではなく、アイドルとプロレスの新たな関係性を想像するきっかけとして捉えるべきだろう。
松井珠理奈のアンバサダー就任とハイデガー
現代社会は「das Man(世人)」による画一化と没個性化の時代といえる。人々は自らの本来的な在り方を見失い、ただ世間一般の価値観に流されて生きている。メディアもまた、このような世人の支配を強化する装置だと言えるだろう。
アイドルとプロレスを巡る「賛否両論」は、まさにこのようなメディアの力を如実に示している。人々は、メディアが提示する話題に対して一喜一憂し、自分自身の意見を主張しているようでいて、実はただ世間の価値観に振り回されているだけない。
ハイデガーは、このような状況を「Gerede(空談)」と呼んだ。人々は本当の意味で対話をしているのではなく、ただ表層的な言葉を交わしているだけなのだ。アイドルとプロレスを巡る賛否の声もまた、このような空談の一種だと言えるだろう。
しかし、ハイデガーが説くように、私たちは「Dasein(現存在)」として、自らの存在の意味を問い直す必要がある。松井珠理奈のアンバサダー就任は、そのような問いを喚起する一つの契機となり得るのではないだろうか。
つまり、私たちは単に賛成か反対かを表明するのではなく、なぜこのような出来事が話題となるのか、それが私たち自身の存在にとってどのような意味を持つのかを考えなければならない。それは、世人の価値観から距離を取り、本来的な自己を取り戻すための第一歩となるかもしれない。
ハイデガーはまた、「Ereignis(出来事)」という概念を重視した。それは、存在そのものが自らを開示する出来事を指す。松井珠理奈のアンバサダー就任もまた、一つの出来事として、私たちに存在の意味を問いかけているのかもしれない。
もちろん、これは容易なことではない。私たちは日常の中で、つい世間の価値観に流されがちだ。しかし、だからこそ、このような出来事を通して、自分自身の存在を根源的に問い直すことが求められている。
特に、アイドルとプロレスという、一見すると異質な領域の交わりは、私たちに新たな視点を提供してくれる。それは、既存の価値観を脱構築し、新たな意味の地平を切り拓く可能性を孕んでいる。
松井珠理奈自身の言葉、「賛否両論あっても話題になればいい」もまた、示唆的だ。ハイデガーの言葉を借りるなら、それは「das Man」の支配に抗う一つの姿勢だと言えるだろう。重要なのは、単に人々の関心を集めることではなく、そこから新たな対話と思索が生まれることなのだ。
以上のように、松井珠理奈のスペシャルアンバサダー就任は、ハイデガーの思想を通して見ると、現代社会の病理を浮き彫りにすると同時に、私たち一人ひとりに存在の意味を問い直す契機を与えてくれる。
私たちは、このような出来事を単なる話題として消費するのではなく、自分自身の生の課題として引き受ける必要がある。そのとき、賛成や反対といった表層的な議論を超えて、本当の意味での対話が生まれるのかもしれない。
松井珠理奈のアンバサダー就任は、私たちに問いかけている。あなた自身の存在の意味とは何か、と。この問いに向き合うことこそが、画一化された世界に抗する道なのかもしれない。そして、そのような思索の積み重ねこそが、新たな世界を切り拓いていくのだ。
松井珠理奈のアンバサダー就任とデリダ
まず、「賛否両論」という言葉自体が、二項対立的な思考を前提としている。それは、ある事柄に対して肯定か否定かの明確な立場を取ることを求める言説だ。しかし、デリダが「différance(差延)」の概念で示したように、意味は常に差異の遊戯の中で生成されるものであり、確定的な二項対立には収まらない。「賛否両論」という言説は、その差異を隠蔽し、意見を二つの陣営に分断する効果を持っている。
次に、「話題になればいい」という松井の発言は、「ロゴス中心主義」への批判を喚起する。デリダは、西洋思想における「ロゴス(言葉・理性)」の優位性を問題視し、言語の多義性や不確定性を強調した。「話題になればいい」という発言は、言葉の意味内容よりも、その流通量や影響力を重視する姿勢を表しています。それは、言葉の真理性や倫理性を二の次にする、一種のシニカルな言語観だと言えるだろう。
さらに、秋元康氏の「賛否両論が出ないようではダメだ」という考えは、「現前の形而上学」への批判を想起させる。デリダは、真理や実在が直接的に現前すると考える伝統的な形而上学を批判し、不在や痕跡の重要性を説いた。「賛否両論」を積極的に喚起しようとする姿勢は、真理や正義よりも、現前する反応や効果を優先する態度だと解釈できる。
しかし、ここで重要なのは、松井のアンバサダー就任という出来事が持つ「脱構築的な力」だ。プロレスとアイドルという異なるジャンルのコラボレーションは、既存のカテゴリーを攪乱し、新たな意味の可能性を切り開く。それは、デリダが「脱構築」と呼んだ、固定された意味の体系を解体し、再構築する営みにほかならない。
ただし、その脱構築的な力は、「賛否両論」という言説によって常に回収される危険性を孕んでいる。「話題になればいい」という発想は、出来事の持つ革新性や批判性を中和し、スペクタクル(人々を魅了し、感動させるような壮大な出来事や見せ物)化してしまうからだ。重要なのは、その回収を免れ、出来事の脱構築的なポテンシャルを維持し続けることだろう。
そのためには、「賛否両論」という言説そのものを脱構築する必要がある。つまり、肯定と否定の二項対立を乗り越え、出来事の複雑性や多義性を肯定することだ。松井のアンバサダー就任を、プロレスとアイドルの垣根を越境する出来事として、メディアの論理に回収されない仕方で捉え直すこと。そうした脱構築の実践こそが、現代社会における「賛否両論」の呪縛から私たちを解き放つ契機となるのではないだろうか。
松井珠理奈のスペシャルアンバサダー就任は、「賛否両論」という言説の脱構築を促す出来事として読み解くことができる。そこでは、出来事の革新性と、それを回収しようとする言説の間の緊張関係が浮かび上がる。私たちに求められるのは、その緊張関係を維持しつつ、新たな意味の生成可能性を切り拓いていくことなのだ。そうした営為を通して、「賛否両論」に支配された言説空間を脱構築し、より豊かな対話と思考の場を作り出していくこと。それこそが、松井のアンバサダー就任が私たちに突きつける課題なのかもしれない。
AKBの「賛否両論」
AKB48グループは、賛否両論を続けた結果、12年間生き残ってきた、と言ってもいいと思う。
チームA1st劇場公演中の「スカート、ひらり」という楽曲からして「パンツ見せ集団」と揶揄されたそうだ。(実際はブルマである。)
握手会というシステムも、総選挙も賛否両論だろう。
賛否両論がある一方で、それゆえに、アイデンティティは強固になり、グループとファンとの強固なつながりを生み出す原動力になったと言えるだろう。
AKB48は、賛否の「否」である揶揄や批判にも立ち向かい、公然と自身のスタイルを貫くことで、強烈な印象と認知度を広めたのだ。
こうした賛否両論の中でグループが成長し続ける様子を見ていると、まるで生命体のようにも思える。新たな試みや挑戦によって常に変化し続け、時には賛否両論を巻き起こしながらも、その中で学び、進化し続けている。このプロセスは、自然界の生物が適応と進化を繰り返す様子を彷彿とさせる。
初期の松井珠理奈とSKE48
当記事の筆者はかつて、AKB48の中にいる松井珠理奈を初めて見たとき、アイドル性以外のなにかを感じ取った。ビジュアルが好みだったことは否定しない。が、そのビジュアルにはアイドル以外のなにかが表れていた。松井珠理奈に注目するにつれそのなにかが少しずつわかってきた。リーダーシップ、責任感、強い意志、利発さ。これらはアイドルの枠を超え、一人の人間として尊重されるべき資質だ。
その後、必然的にSKE48という集団に注目するようになった。ここにも、アイドル性以外の資質が高いメンバーがたくさんいた。
平田璃香子、佐藤実絵子、中西優香、大矢真那、桑原みずき…。
SKEは、彼女たちの人としてのモラル、優秀さによって、AKBを超えようとし、またゼロポジ公演ドキュメントなどで語られた「どん底の時期」を乗り切ったのだと思う。
1期生の背中を見て、斉藤真木子は5期研究生を鍛え上げ、研究生公演は劇場公演の当選倍率でチームEを上回った。(松村香織がかつて言っていた。)それを支えたのは内山命だ。
高柳明音はチームC(2代目チームKⅡ)時代には、大雅量を持ち合わせていた。
現KⅡリーダーの大場美奈も、SKEに来てリーダーの器を、さらに大きくした部分もあるのではないか。
近年では、須田亜香里が、人の上に立つ器をさらに身につけつつあると思う。松村香織しかり。後藤理沙子はゴリチルの総帥である。
アンバサダー就任から読み解く松井珠理奈のさらなる成熟
松井珠理奈がアンバサダー就任インタビューで「賛否両論あっても話題になればいい」と秋元康のようなことを言いだした。
「賛否両論」を口にすることは、自己の成長やグループ全体の発展への挑戦とも言えるだろう。また、彼女の成熟した視点を示すものだろう。
様々な評価や意見がある中で、自己をしっかりと持ち、変わりゆく状況に柔軟に対応し、常に成長し続ける。そこには、公の人としての強靭さだけでなく、松井珠理奈の一人の人間としての魅力が詰まっている。
アンバサダー就任インタビュー中では「アントニオ猪木のようだ」と評されている。アントニオ猪木はプロレス界でその名を轟かせ、多くの賛否両論を巻き起こしながらも、その存在感と影響力は絶大だった。記事がこうした大物の名を引き合いに出すことで、松井珠理奈も清濁併せ呑む度量を身につけつつあることを表現しているのだろう。
賛否両論のなかにこそ、進化と成長の種があるのではないか。それはアイドルグループだけでなく、どのような団体や組織にも共通する教訓かもしれない。大きな目標に向かって挑戦し続ける中で、賛否両論を恐れず、むしろそれを受け入れることで成長していく。
その姿勢は、松井珠理奈やAKB48グループだけでなく、我々自身にも大いに参考になる。
アンバサダー就任インタビューから感じることは、松井珠理奈は、SKE48は、ますますアイドル以上のなにかに変貌しようとしているような気がする。
松井珠理奈が語るプロレスの歴史を知る重要性
松井珠理奈はプロレスにハマっている。だからこそ、アンバサダーに就任したわけだが、その中で松井珠理奈は、プロレスの歴史を知る、歴史を追いかけることの重要性を何度か語っている。
プロレスもSKEもハイコンテクストなコンテンツ
プロレスとSKEの共通点の1つは、ハイコンテクストだということだと思う。もちろん、目の前で行われていることだけを見ても、楽しめることは楽しめる。
一方、たとえば、新日本プロレスなら、アントニオ猪木と藤波辰爾の「飛龍革命」や藤波辰爾と長州力の「噛ませ犬発言」などを知っていると、目の前で起きていることの見え方が変わるだろう。
松井珠理奈のアンバサダーとしての役割の1つは、ハイコンテクストを補うことにあるだろう。
松井珠理奈の歴史性と「にわか」のアンバサダー
これは、松井珠理奈自身「この人は私の歴史を知っていればこんなことは言わないんじゃないかな」と幾度となく思っただろうことと少なくとも彼女の潜在的な部分では無関係ではないような気がする。
「私がAKBグループで体験してきたこと、私の歴史を知ってほしい」という心の叫びでもあるような気がする。
それはたとえば、SKEに加入直後、キャリアゼロでAKBのCDシングル『大声ダイヤモンド』で序列1位に抜擢されたものの「なんでAKBにSKEのメンバーがいるんだ!」と言われたり、握手会で握手を飛ばすファンがいたり、という体験であろう。
松井珠理奈は、今、一部のプロレス界隈から「にわか」と言われている。「にわか」がアンバサダーに就任したと。これは、上記の、松井珠理奈が『大声ダイヤモンド』で序列1位に抜擢された状況と似ている。
「新しいSKEらしさ?」と松井珠理奈の信念
ところで、ある評論家の方は(SKEの番組をやってくれているので感謝はしています)SKE6期生より下あたりは、いわゆる体育会のSKEではないと度々述べている。
また、ある討論番組に出た、ある若手メンバーは「新たなSKEらしさ」が必要なのではないかと問題提起をしている。
一方、同討論番組で松井珠理奈は「可愛さは足りすぎている。足りないのはSKEらしさ。全力以上。」とコメントしている。
松井珠理奈は、SKEの本質的な魅力はその歴史や伝統、そして独自のパフォーマンスにあるという
信念を持っているのだろう。
そして、松井珠理奈は新たなメンバーやファンに対しても、SKEの歴史や伝統を知り理解してほしいのだろう。
松井珠理奈のこの考え方は、SKEのみに該当するものではない。プロレスもそうである。組織やコミュニティに新しいメンバーが加入する場合、彼らが組織の文化や価値観を理解し、尊重することは、一般論として重要であろう。すでにコミュニティにいる者は「ご新規」を尊重し、「ご新規」はコミュニティの文化や価値観を尊重することが大切なのだろう。アンバサダーの松井珠理奈は、そのことを十分すぎるほど理解しているのだ。
プロレスも「イデオロギー」の世界
かつて長州力は「イデオロギーの闘い」という言葉を発したことがある。新日本プロレスと全日本プロレスでは、イデオロギーが異なる。新日本プロレスとUWFが対抗戦をしていたときも、「イデオロギー」が語られていたらしい。
なぜそのような団体が、そのようなイデオロギーなのか。たとえば、新日本プロレスと全日本プロレスなら、トップのアントニオ猪木とジャイアント馬場の影響が絶大であろう。UWFはカール・ゴッチである。その団体を理解するには、彼らのイデオロギーを理解する必要があり、そのためには、彼らの歴史を知る必要がある。
SKE内のイデオロギーの差異
私の勝手な想像だが、5期生の「えごなる」と古畑奈和の間にSKEについてのイデオロギーに
仮に差異があるとするならば、それは、S3rd『制服の芽』公演にアンダー出演したか否か、桑原みずきの教育を受けたか否か、が大きいのではないかと思う。
市野成美、江籠裕奈は中学1年生のときにS3rdに出演し、桑原みずきの洗礼を受けている。そして、加入当時、5期研究生を鍛えていたのは斉藤真木子である。
この初期の環境が、現在のイデオロギーに多大な影響を与えている可能性は多分にあるような気がする。
それに対し、古畑奈和は、比較的早い時期に初代チームEのみにアンダー出演の後、初代チームEに昇格している。研究生時代、チームEを通して斉藤真木子の洗礼は受けだだろうが初代チームEは、そこまで体育会のにおいがするチームではなかったように思う。
6期生は2人、S3rdに出演しているが桑原みずき卒業後である。1人は北野瑠華で、1人はすでに卒業している。ただし、6期生は佐藤実絵子が研究生公演を見に来て、SKEイズムを注入されている。
桑原みずきがいたS3rdという歴史を知る者と知らぬ者。桑原みずきがいた選抜という歴史を知る者と知らぬ者。SKEに対するイデオロギーがここである程度分かれるような気もする。
ところが、7期生には、杉山愛佳がいる。桑原みずきになりたかったのが宮前杏実であり、宮前杏実にあこがれているのが杉山愛佳である。
また、浅井裕華のあこがれは須田亜香里である。須田亜香里も劇場でクレイジーな(ほめている)パフォーマンスを続けてきた人である。
次に8期生を見てみよう。松井玲奈推しの倉島杏美は並のSKE推しより先輩である。坂本真凛はペンペンの弟子であり、どりー民である。北川愛乃は昇格時にチームSに「がむしゃらさがあまり見えない」と言った人である。3人とも、劇場でクレイジーなパフォーマンスをしている(ほめている)SKE原理主義者ではないか。
そしてSKE原理主義者といえばD1には福士奈央がいる。
一部の論者が語るように、そうカンタンに「新しいSKEらしさ」に移行するようには思えないのだがどうでしょう。
2021年4月29日追記。
高柳明音、松井珠理奈が劇場での最終公演を終えた。2020年12月の決算報告資料にも見えるSKEのリブランディングは、どうなるのだろうか?引き続き、全力感を打ち出すのか。それとも、坂道に寄せるのか。