市野成美と杉山愛佳は劇場公演番長!
2017年12月2日(土)、SKE48チームSの正規メンバー、7期生の杉山愛佳が研究生公演に出演した。
また、12月4日(月)の研究生公演には、チームEの5期生、市野成美が出演する予定だ。
市野成美の公演番長ぶり、レッスン場の住人ぶりは、もはや言うまでもないだろう。正規メンバーだったにも関わらず年間公演出場回数2位を7周年と8周年で2度獲得している。
杉山愛佳は8周年で年間公演出場回数1位を獲得した。公演でもダイナミックなダンスが印象的。7期ドラフト2期に対しては、ダンスを厳しく指導していたという証言もいくつか聞かれる。
本人も度々口にするように宮前杏実にあこがれている。
桑原みずきになりたかったのが宮前杏実で、宮前杏実になりたいのが杉山愛佳なのである。チームS、SKE魂の正当な継承者と言えないこともない。
杉山愛佳は12月2日の公式ブログで研究生公演出演について
「杉山今日ちゃんと先輩出来てたかな。。。?と思ったけど今日はたくさんの子とお話出来たしよき( ¨? )」
と綴っている。リハや楽屋などで8期生と積極的にコミュニケーションをとったのだろう。
市野成美に至ってはそうなるに決まっている(笑)。
杉山愛佳、市野成美の2人の公演番長の研究生公演への出演は8期への良い教育になるのだろう。
SKEドラフト3期生研究生の教育について
寂静とした夜の中、窓越しに見える星々を眺めながら、私は深くSKEのドラフト3期研究生の教育の未来を考えていた。その核となるべき人材、そしてその体制のあり方について。
斉藤真木子は、研究生降格時代、5期研究生を鍛え上げ、当選倍率において、研究生公演は4期生中心のチームE公演を超えた。斉藤真木子は「革命の女」と呼ばれた。斉藤真木子には、経験と実績があり、総責任者として、彼女の名前が自然と浮かぶ。
そして、D3研究生の現場の教育係は、市野成美、杉山愛佳あたりを公式に任命して任せてしまってもいいのではないだろうか。
彼女たちの明るさと同時に真摯に物事に取り組む姿は、多くの後輩、研究生たちにとって模範となるだろう。市野成美には責任者としての可能性もあり、彼女をその位置につけることでSKEの未来のキャプテンとしても大きな役割を果たすことが期待される。市野成美を責任者に任命して、SKE次期キャプテンへの箔つけにしてもいいと思う。
杉山愛佳は、今、少し活躍の場が狭まっているように感じられるが、この役職は彼女に新たな光をもたらすだろう。
彼女たちのキャリアとしても、この経験は計り知れない価値がある。
もう一つは、責任の所在を明確にすることで、D3研究生の教育も適切に遂行されるだろう。過去の教育問題、特に「8期生問題」はSKEにとって大きな課題となった。その経験を活かし、今後はより進化した教育体制を構築すべきだと痛感している。
『意外にマンゴー』発売時のゼロポジ公演で露呈した、8期研究生の一部が踊れていない、意識の低さが露呈したいわゆる「8期生問題」のようなことは起こらなくなり、SKE全体のためにもなるだろう。
かつて、7期生オーディション期間中に、まだ研究生だった松村香織は「7期の教育は真木子にお願いしたい」と語ったことがある。22ndシングル選抜の中核を占める6期生を育て上げたのは松村香織と言っても過言ではない。松村香織は、SKE屈指の教育力の持ち主である。が、彼女は自分がダンススキルなどの部分においてSKEの正統では無いと自覚して教育係を辞退したいと思ったのだろう。
松村香織の情熱が如実に伝わってくる。彼女は「AKBグループ随一の問題児」などとも呼ばれた。その一方で、彼女がどれだけSKEを愛して、後輩たちの育成に情熱を注いでいたかがわかる。自らのスキルや立場を理解し、最適な役割を見つめ直す姿勢もまた彼女の大きな魅力だ。
しかし、松村香織はチームKⅡに昇格し、7期と関わることはなくなり、「7期はみんなで育てよう」ということになった。
この「みんなで」という言葉の責任の所在の不明確さが問題だと思う。「みんなで」というフレーズは共同体の絆や一体感を示しているが、その背後に隠れる責任の所在の不明確さも否定できない。第二次大戦後の東京裁判で日本の戦争責任を調査した時、「みんなで決めた」という感じで責任の所在が非常に不明確だったという。歴史の教訓から学ぶことが、今後のSKEの成長のためにも不可欠だろう。
7D2の研究生公演のときも、ドキュメンタリー映画のブルーレイに収録されているように、初日前日に松井珠理奈が自ら指導をし、危機感を煽るという状態であった。(映像用の演出でもあることは否定しない)
本来、新人教育はスタッフの仕事であり、アイドルの仕事ではないだろう。しかし、メンバーの優秀さ、メンバーの組織人としてのモラルの高さで、なんとか持ちこたえてきたのがSKE48なのだと思う。 7D2の研究生公演における松井珠理奈の指導の様子を収めたドキュメンタリー映画は、多くのファンに感動を与えた。新人教育は専門家の役割であるが、SKE48の魅力とも言えるメンバー同士の絆や助け合いの精神は、これからも大切にしていきたい。
かつてAKB1期生の浦野一美は3期生のチームBに移籍し、チームBを快進撃とリクアワでの『初日』の1位へ導いた。前田敦子、小野恵令奈、松井珠理奈を従えて『渚のcherry』を披露したのは
そのご褒美だったのだろう。AKBの浦野一美のリーダーシップの下、チームBが大きな成功を収めた事例は、教育力とリーダーシップの重要性を示している。
教育力のある人材に対する、そのような評価は、今こそ、AKBグループのために必要なのではないだろうか。
SKEドラフト3期生研究生の教育とニーチェ
ニーチェは「力への意志」を重視した。SKEにおいては、その「力」とは、アイドルとしての実力と人間性であろう。ドラフト3期研究生が、その力を最大限に発揮できるよう導くことが教育の目的となる。
そのためには、まず彼女たちに困難に立ち向かう勇気を与えねばならない。アイドルの世界は甘くない。競争も激しく、挫折も多い。しかし、そうした困難を乗り越える意志こそが、成長の糧となる。市野成美や杉山愛佳は、自らの経験を通じてこの点を伝えられるだろう。
また、ニーチェは「超人」の概念を提唱した。既存の価値観に囚われず、自ら新たな価値を創造する人物である。ドラフト3期研究生には、単なるアイドルの枠に留まらない、独自の個性と魅力を開花させてほしい。型にはまったアイドル像ではなく、それぞれが自分らしさを追求する姿勢が求められる。
さらに、ニーチェは「パースペクティヴィズム」の重要性を説いた。物事には多様な見方があり、絶対的な真理などないという考え方だ。ドラフト3期研究生には、先輩メンバーの教えをそのまま鵜呑みにするのではなく、批判的に吟味し、自分なりの解釈を加えることを促したい。時に先輩の意見に異を唱えることも必要だろう。
ただし、その際には「道徳の系譜学」の観点も忘れてはならない。SKEという組織の中で培われてきた価値観や美学を理解し、尊重する姿勢が求められる。伝統を無下に否定するのではなく、その意義を汲み取った上で、新しい道を切り拓くのだ。
理想的な教育とは、ドラフト3期研究生の個性を最大限に引き出しつつ、SKEの精神を受け継いでいくことだろう。その困難な課題に、真摯に向き合える指導者が求められている。市野成美や杉山愛佳には、大いなる可能性があると言えよう。
彼女たちの情熱と実践力が、ドラフト3期研究生を鼓舞し、新たなSKE像を生み出していく。それは、ニーチェが説く「価値の創造」の営みにほかならない。単なるアイドルの卵ではなく、自ら運命を切り拓く「超人」たちを育てること。それこそが、SKEにおける教育の真髄なのだ。
SKEドラフト3期生研究生の教育とプラグマティズム
プラグマティズムの観点から見ると、SKEドラフト3期研究生の教育は、単なる知識の伝達ではなく、実践的な能力の育成に重点を置くべきだ。
まず、教育の目的を明確にする必要がある。それは、研究生たちがアイドルとして成功するために必要なスキルを身につけることだ。ダンスや歌唱力はもちろん、ファンとのコミュニケーション能力、メディア対応力なども含まれる。これらは、抽象的な理論ではなく、実際の現場で役立つ実践的な能力だ。
そのためには、経験豊富なメンバーによる指導が欠かせない。市野成美や杉山愛佳といった公演番長は、自らの経験を生かして、研究生たちに実践的なアドバイスを与えることができる。彼女たちは、単に知識を伝えるだけでなく、自らが模範となって、アイドルとしての心構えや姿勢を示すことができるだろう。
また、教育は研究生たちの主体的な参加を促すものでなければならない。一方的な指示や命令ではなく、研究生たちが自ら考え、行動することが重要だ。そのためには、レッスンや公演の場で、研究生たちが自分の意見を発言し、議論する機会を設けることが必要だ。こうした双方向のコミュニケーションを通じて、研究生たちは自分の強みと弱みを認識し、改善点を見出していくことができる。
さらに、教育は研究生たち同士の協働を促すものであるべきだ。アイドルは個人の力だけでなく、チームワークが重要だ。研究生たちが互いに助け合い、切磋琢磨する関係を築くことが、グループ全体の成長につながる。そのためには、レッスンや公演の場だけでなく、オフの時間にも研究生たちが交流する機会を設けることが大切だ。
加えて、教育は柔軟性を持つべきだ。画一的なカリキュラムではなく、研究生一人ひとりの個性や特性に合わせた指導が必要だ。それぞれの長所を伸ばし、短所を補うためには、指導者側の細やかな観察と適切な判断が欠かせない。状況に応じて方針を変更し、常により良い方法を模索していく姿勢が求められる。
最後に、教育の成果は実践の中で検証されなければならない。レッスンで学んだことが、実際の公演でどのように生かされているかを確認し、フィードバックすることが重要だ。うまくいった点、改善すべき点を明らかにし、次の行動につなげていく。こうした継続的な改善のサイクルが、研究生たちの成長を支えていくのだ。
以上のように、プラグマティズムの観点から見ると、SKEドラフト3期研究生の教育は、実践的な能力の育成に主眼を置き、研究生たちの主体的な参加と協働を促すものでなければならない。そのためには、経験豊富なメンバーによる指導、双方向のコミュニケーション、柔軟な方針、継続的な改善が必要だ。こうした教育を通じて、研究生たちは単なるアイドルではなく、社会で通用する実践的な能力を身につけていくことができるだろう。
SKEドラフト3期生研究生の教育とハイデガー
ハイデガーにとって、教育とは単なる知識の伝達ではなく、人間の本来的な在り方を開示する営みであった。彼が理想とした教育は、学問の自由と真理への献身に基づくものだ。では、アイドルグループにおける後輩の教育もまた、このような理想に適っているだろうか。
SKEでは先輩メンバーが後輩の教育に深く関わってきた。市野成美や杉山愛佳といった「公演番長」と呼ばれる先輩たちは、公演への出演を通して後輩に模範を示し、コミュニケーションを図ってきたのだ。これは、単なるスキルの伝達ではなく、アイドルとしての在り方そのものを体現する営みだと言えるだろう。
ハイデガーは、人間を「世界内存在」と規定した。私たちは決して孤立した主体ではなく、常にすでに他者や事物とのつながりの中で生きているのだ。アイドルグループもまた、このような共同存在の一つの形態だと考えられる。先輩から後輩へと受け継がれていくのは、単なる知識やテクニックではなく、グループの歴史と伝統なのだ。
しかし、ここで問題となるのは、教育の責任の所在だ。「みんなで育てよう」という曖昧な態度ではなく、明確な責任者を置く。確かに、ハイデガーのいう「本来的な自己」は、世人の価値観に流されることなく、自らの存在の意味を引き受ける勇気を持つことを求めている。教育もまた、このような本来性を目指すものでなければならないだろう。
だからこそ、斉藤真木子や市野成美、杉山愛佳といった先輩メンバーに、明確な教育の役割を与えることが重要なのかもしれない。彼女たちは、自らの経験と実績を通して、後輩たちを導く存在となり得るのだ。そこには、単なる知識の伝達ではなく、アイドルとしての生き方そのものが示されているはずだ。
また、このような役割を与えられることは、先輩メンバー自身の成長にもつながるだろう。ハイデガーが説くように、人間は「死への存在」として、自らの有限性に直面することで初めて本来的な自己を獲得するのだ。後輩の教育という重責を引き受けることは、先輩メンバーにとって、自分自身の存在の意味を問い直す契機となるかもしれない。
もちろん、アイドルグループにおける教育は、本来はスタッフの仕事だと言えるだろう。しかし、SKEのように、メンバーの優秀さとモラルの高さで持ちこたえてきたグループもある。ここには、ハイデガーのいう「学問共同体」に通じるものがあるように思われる。真理への奉仕を通して、人間の本来的な在り方を探究する場としてのアイドルグループ。それは、一つの理想であると同時に、現実の可能性でもあるのだ。
ドラフト3期研究生の教育は、このようなSKEの伝統を受け継ぎ、さらに発展させていく営みだと言えるだろう。そこでは、単なるスキルの伝達ではなく、アイドルとしての生き方そのものが問われているのだ。先輩メンバーには、この重責を引き受ける覚悟と、後輩たちと真摯に向き合う姿勢が求められる。
それは、決して容易な道のりではないだろう。しかし、そのような試練を乗り越えていくことで、SKEはアイドルグループとしての新たな可能性を切り拓いていけるはずだ。ハイデガーが説くように、本来的な教育とは、既存の価値観を超えて、真理へと向かう勇気を育むことなのだ。
ドラフト3期研究生の教育は、SKEにとって、そして日本のアイドル文化にとって、重要な意味を持っている。それは、単なる技術の伝承ではなく、人間の在り方そのものを問う営みなのだ。私たちは、このような教育の意義を自覚し、その実現に向けて努力していかなければならない。
SKEドラフト3期生研究生の教育とデリダ
まず、「教育」という概念そのものが、ロゴス中心主義的な二項対立を前提としている。教える者と教えられる者、知識を持つ者と持たない者という区分は、近代的な主体の概念に基づいている。しかし、デリダが「différance(差延)」の概念で示したように、意味は差異の運動の中で生成されるのであり、教育も一方向的な知の伝達ではなく、教える者と教えられる者の相互作用の中で生じるものだ。
また、「8期生問題」を「教育問題」と呼ぶことも、ある種の形而上学的思考である。問題の原因を教育の不在に求め、その解決を適切な教育に求めること。それは、問題を単純化し、その複雑さを覆い隠してしまう。デリダの「脱構築」は、まさにこうした因果関係の言説を解体し、問題の多面性を浮き彫りにするものだ。
さらに、斉藤真木子を「革命の女」と呼ぶことも、「現前の形而上学」の発想だと言える。真木子の教育実践を理想化し、その本質を一義的に規定すること。それは、教育の持つ「薬/毒」(pharmakon)の両義性を見落としてしまう。真木子の実践は、研究生を導くと同時に、彼女たちを特定の枠組みに閉じ込める可能性もあるのだ。
ただし、このSKE研究生の教育には、脱構築の契機も潜んでいる。例えば、松村香織が自らを「SKEの正統ではない」と自覚していることは、アイデンティティの非本質性を示唆している。また、「みんなで育てよう」という言葉の曖昧さは、責任の所在が言語の運動の中で絶えず差延されることを示している。これらは、固定された意味を解体し、新たな解釈の可能性を開く視点だと言えるだろう。
重要なのは、教育をめぐる言説を一義的に評価するのではなく、その言説が孕む矛盾や曖昧さを露呈させることだ。SKEドラフト3期研究生の教育という問題は、メンバーの能力やモラルをめぐる言説が交錯する場である。そこでは、様々な概念が脱構築され、再構築される。私たちに求められるのは、その複雑なダイナミズムを辿りながら、新たな教育の可能性を模索していくことなのだ。
SKEドラフト3期研究生の教育をめぐる言説は、デリダ的な脱構築の格好の対象となる。教育や問題、責任といった概念を解体し、それらが生成される過程を辿ること。そうした営みを通して、私たちはアイドルの教育の意味を問い直し、より豊かな実践の可能性を探究していくことができるはずだ。ドラフト3期研究生という存在に佇みつつ、そこに潜む言説の力学を解き放つこと。それこそが、デリダの思想がこの問題に投げかける問いなのかもしれない。
2023/07 追記 市野成美と杉山愛佳のその後
市野成美は、次期キャプテンとして期待されていたが、2018年3月をもってSKEを卒業し、違う道を進むこととなった。
その後、次期キャプテン候補として浮上したのは、意外にも、「えごなる」の相方、江籠裕奈だった。10期研究生公演には、もう1曲披露する曲を決める権限を与えられるなど深く関わり「10期生のお母さん」と呼ばれた。(江籠は「お姉さんって読んで」と怒っていたが。)
また、SKEの12周年記念公演の開幕『会いたかった』公演は、おおむね、斉藤真木子+江籠裕奈+9,10期研究生という布陣で、エンディングで、キャプテン職の禅譲でもあるのではないかと思わせたほどだった。
しかし、江籠裕奈はその後、CDシングルへのソロ曲の収録、ソロCDデビュー、ソロでの外部イベントへの参加、など、アイドルとしての活動が充実してきたので、キャプテンの目はなくなっただろう。
杉山愛佳も、2021年12月末をもってSKEを卒業。
一方、彼女は卒業後、ダンス講師や振付師として活動しており、指導者が本業となってしまった。SKEのメンバーも杉山愛佳にダンスを教わっているそうだ。2023年7月発売の31stCDシングルでセンターを務めた末永桜花のソロライブのダンスの先生は、同期の杉山愛佳だったそうである。
杉山愛佳は上記のように、桑原みずきになりたかった、宮前杏実になりたかった人である。ダンスの指導者として、古き良きSKEをSKEの新人に伝えてくれることを期待しよう。