【SKE48】第3回AKBグループドラフト会議はSHOWROOM投票の直接民主制

直接民主制の短所 

 2018年1月22日に第3回AKBグループドラフト会議が行われた。

 今回の指名方法はSHOWROOMでのファンによる投票、いわば直接民主制だった。評判は悪かったようだ。

 そもそも民主主義について、ウインストン・チャーチルは「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。」と述べている。

 また、憲法学では、一般に、直接民主制には以下ような短所があるので、積極的に間接民主制を採用しているとする。

1.十分な審議、討論の上で統一的な意思を形成することができない。
2.多数決主義的な民主主義により少数者の人権が尊重されない。
3.正当性をもった独裁者を生み出す可能性。ナポレオンもヒトラーも国民によって選ばれた。

 今回のドラフトが評判が悪かったのは、主に上記1が原因なのではないか。

 特にSKEは73番選択終了の恐怖にかられ、SKE志望の子を早くに指名した傾向があるようである。

 たとえば、ファンの投票はあくまで参考、行政庁の諮問機関のような存在にして、最終的には現役メンバーが指名するなどの方法もありえただろう。

AKB運営の意図は?

 だが、私は、AKB運営は敢えてbetterな選択肢をとらず、批判も多そうな今回の直接民主制を採用したようにも思う。

 まず、なんにせよ、ファン自らが意思決定に関わる直接民主制はファンにとって刺激的だっただろう。

 また、批判があったにせよ、ドラフト会議前後に乱れ飛ぶ言説まで含めて、ドラフト会議というイベントなのである。議論が盛り上がるのならイベントとして成功だ。

 次に、アイドルというものは、「点」におけるマイナスが「線」においてはプラスになることがよくある。アイドルビジネスも同様だろう。「点」においてbetterな選択肢を取り続けることが「線」におけるbestではない。

 さらに、仮に今回のドラフトが失策だったとしても、ユニクロの柳井さんが「一勝九敗」という本を書いているように、ビジネスとは、10のうち1成功すればいいのである。
 運営批判する自由はあるのだろうし、批判をするのが楽しいのかもしれないが、「一勝九敗」の「九」を批判しているのである。

第3回AKBグループドラフト会議とフランクフルト学派

 フランクフルト学派の視点から見れば、第3回AKBグループドラフト会議は、大衆文化の病理を如実に示す出来事だと言えるだろう。

 まず、ファンによる直接投票という方式は、一見すると民主的に見えるが、実際には「文化産業」の巧妙な操作の産物だと言える。アドルノとホルクハイマーが指摘したように、大衆文化は、消費者の欲望を巧みに操作し、自由な選択の幻想を与えることで、実質的な不自由を隠蔽する。ファンは自分の意思で投票しているつもりでも、その選択肢自体が運営側によって限定され、誘導されているのだ。

 また、直接民主制の短所として指摘されている「十分な審議、討論の上で統一的な意思を形成することができない」という点は、ハーバーマスが重視した「コミュニケーション的行為」の欠如を示している。ファンたちは、お互いの意見を理性的に議論し合うのではなく、感情的な投票行動に駆り立てられる。これは、理性的な合意形成を阻害し、大衆の非理性を助長するものだ。

 SKEの「選択終了」という多数決決定の恐怖は、フロムが警告した「自由からの逃走」の一種と言えるかもしれない。不確実性や責任から逃れるために、多数派に迎合する心理が働くのだ。これは、全体主義の温床にもなりかねない危険な傾向である。

 運営側が直接民主制を採用したのは、「道具的理性」の発露だと見ることができる。目的のためには手段を選ばない、効率優先の思考がそこにはある。ファンの批判よりも、イベントとしての成功やビジネス的な利益を優先するのは、「一勝九敗」という言葉に象徴される功利主義的な発想だ。

 ただし、こうした批判をするときにも、私たちは自らの立場を内省する必要がある。大衆文化を批判しつつ、同時にそれを消費し、享受しているのは私たち自身なのだ。アドルノは「啓蒙の弁証法」の中で、理性批判が再び神話に転化する危険性を指摘した。同様に、大衆文化批判も、批判のための批判に堕する危険を孕んでいる。

 重要なのは、「否定弁証法」的な思考、つまり、既存の文化や価値観を絶えず乗り越えていく批判的精神を持続させることだ。AKBグループドラフト会議という一つの事象から、私たちは現代社会の病理を読み取ることができる。しかし、それを批判するだけでは不十分だ。その批判を通して、私たち自身のアイデンティティや欲望のあり方を問い直し、新たな文化のヴィジョンを切り拓いていく必要がある。その意味で、ドラフト会議をめぐる議論は、単なるアイドル話題にとどまらない、批判理論の格好の素材なのかもしれない。

第3回AKBグループドラフト会議とハイデガー

 ハイデガーにとって、現代社会は「das Man(世人)」の支配する時代だった。人々は自らの本来的な在り方を見失い、ただ世間一般の価値観に流されて生きている。直接民主制もまた、このような世人の論理に基づく政治形態だと言えるかもしれない。

 直接民主制は、一見すると民衆の意思を直接反映するかのように見える。しかし、ハイデガーが警鐘を鳴らしたように、大衆は往々にして「Gerede(空談)」に支配されがちだ。人々は本当の意味で議論をしているのではなく、ただ表層的な言葉を交わしているだけなのだ。ドラフト会議における投票もまた、このような空談の一種だと言えるだろう。

 憲法学が指摘するように、直接民主制では十分な審議や討論が行われにくいという問題がある。人々は自らの意見を深く吟味することなく、ただ感情的な反応に基づいて投票してしまいがちだ。このような状況では、本当の意味での民主主義は実現され得ない。

 また、多数決の圧力は時として個人の自由な選択を脅かす。SKEの事例は、まさにこの問題を象徴していると言えるだろう。ハイデガーのいう「本来的な自己」は、このような世人の圧力に抗して、自らの存在の意味を問い直す勇気を持つことを求めている。

 しかし、AKB運営の意図をどのように解釈すべきだろうか。テキストの著者は、確かに、直接民主制はファンを刺激し、議論を喚起する効果があったかもしれない。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、このような戦略が果たして本当の意味でのファンの参加を促しているのかどうかということだ。ハイデガーが説くように、本来的な参加とは、自らの存在の意味を問い直すことから始まる。単に感情的な反応に基づいて投票することは、このような参加とは言えない。

 また、「一勝九敗」という考え方もまた、現代社会の効率主義的な価値観を反映しているかもしれない。ハイデガーは、このような計算的な思考を批判し、存在の真理に目を向けることを求めた。アイドルビジネスもまた、単なる利益追求ではなく、人間の本来的な在り方を問い直す営みであるべきなのかもしれない。

 以上のように、AKBグループのドラフト会議における直接民主制の問題は、現代社会の病理を浮き彫りにしているように思われる。私たちは、世人の価値観に流されることなく、自らの存在の意味を根源的に問い直す必要がある。

 もちろん、これは容易なことではない。本来的な自己は常に「死」の可能性に直面しているからだ。しかし、だからこそ、私たちは自らの有限性を引き受け、本来的に生きることを求められている。

 ドラフト会議をめぐる議論は、単なるアイドルビジネスの問題ではなく、現代社会そのものへの問いかけとなり得る。私たちは、効率性や多数決の論理に抗して、一人ひとりの存在の尊厳を守る道を模索しなければならない。「思索」の営みに他ならないのかもしれない。

 AKBグループのドラフト会議は、私たちに問いかけている。あなた自身の存在の意味とは何か、と。この問いに向き合うことこそが、画一化された世界に抗する第一歩となるはずだ。そして、そのような思索の積み重ねこそが、新たな社会の可能性を切り拓いていくのだろう。

第3回AKBグループドラフト会議とデリダ

 まず、「直接民主制」という概念そのものが、ロゴス中心主義的な二項対立を前提としている。間接民主制との対比において直接民主制を語ることは、両者を明確に区別できるという幻想に基づいている。しかし、デリダが「différance(差延)」の概念で示したように、意味は常に差異の運動の中で生成されるのであり、二つの概念は決して純粋に分離できない。直接民主制と間接民主制は、相互に浸透し合い、その境界は絶えず揺らいでいるのだ。

 また、チャーチルの言葉を引用することで、民主主義を「最悪の政治形態」と断ずることは、「現前の形而上学」の発想と言えるかもしれない。デリダは、真理や実在が直接的に現前すると考える伝統的な形而上学を批判した。民主主義を一義的に規定することは、その複雑さや多様性を覆い隠してしまう。むしろ、民主主義とは、絶えざる脱構築の運動の中で生成される概念なのではないか。

 さらに、ドラフト会議の「失敗」を「一勝九敗」の「九」として位置づけることも、ある種の形而上学的思考である。成功と失敗を明確に区別し、失敗を成功のための単なる手段として見なすこと。それは、失敗の持つ生産的な可能性を閉ざしてしまう。デリダの「脱構築」は、まさにこうした二項対立を解体し、新たな意味の生成を促すものだ。

 ただし、AKBグループのドラフト会議には、脱構築の契機も潜んでいる。例えば、直接民主制の採用が「ファンにとって刺激的」だったとすれば、制度の持つ「薬/毒」(pharmakon)の両義性を示唆している。また、「点」と「線」の比喩は、出来事の意味が文脈に応じて変化することを示している。これらは、固定された意味を解体し、新たな解釈の可能性を開く視点だと言えるだろう。

 重要なのは、AKBグループのドラフト会議を一義的に評価するのではなく、その言説が孕む矛盾や曖昧さを露呈させることだ。AKBグループのドラフト会議という出来事は、民主主義やビジネスをめぐる言説が交錯する場である。そこでは、様々な概念が脱構築され、再構築される。私たちに求められるのは、その複雑なダイナミズムを辿りながら、新たな思考の地平を切り拓いていくことなのだ。

 AKBグループのドラフト会議をめぐる言説は、デリダ的な脱構築の実践の場となる。直接民主制や間接民主制、成功と失敗といった二項対立を解体し、それらの概念が生成される過程を辿ること。そうした営みを通して、私たちは民主主義やビジネスの意味を問い直し、より豊かな思考の可能性を探究していくことができるはずだ。ドラフト会議という出来事に佇みつつ、そこに潜む言説の力学を解き放つこと。それこそが、デリダの思想がAKBグループのドラフト会議に投げかける問いなのかもしれない。

総選挙も直接民主制

 余談だが、選抜総選挙も直接民主制である。上記、直接民主制の短所の3、独裁者らしき人も生み出しているようである。

 今回のドラフトの直接民主主義的な部分に批判的だった人が、「推しメンが選挙で○位なのに不遇」と言うことは論理矛盾のような気がするがどうでしょう?

SKEのドラフト指名者

S1巡目:上妻ほの香
 2004年11月19日生まれ。2018年6月26日にSKEの活動を辞退。2018年9月から、他のアイドルグループを渡り歩いているらしい。

S2巡目:大谷悠妃
 2004年7月29日生まれ。2019年1月20日~3月10日に、東海ラジオ『1×1は1じゃないよ』のパーソナリティに抜擢され、天才ぶりを発揮する。度々、SKEは高校まで、という旨の発言をしていたが、2023年7月現在、高卒1年目だが、SKEに在籍している。

S3巡目:選択終了
 2018年末加入の9期生、中坂美祐よりも、選択終了が惜しくも上回った。

KⅡ1巡目:中野愛理
 2001年3月24日生まれ。2021年11月24日、野村実代(SKE8期生)との壮絶な争いを制し、「AKB48グループ×『bis』×SHOWROOMオーディション」グランプリに選ばれる。12月1日発売の『bis』2022年 1月号から1年間レギュラーモデルに就任。2022年12月に始まったオリジナル公演『時間がない』のユニットでは、江籠裕奈とともに『転生しても好きでした』を担当している。

E1巡目:西満里奈
 2000年1月16日生まれ。神奈川県立相模原高等学校出身を公表。知性派として活躍する。2019年10月4日、「11周年前夜祭トークショー祭り」では、SKEオタクメンバーとして「SKE48の11年を偏った視点で振り返ろう」に出演。2021年3月末にSKEを卒業。2022年9月7日、株式会社オールハーツ・カンパニー、マーケティング課の西さんとして、FM AICHIに電話インタビュー出演。

E2巡目:平田詩奈
 1999年8月22日生まれ。これ以前に、SKE8期生オーディションに合格するも、学業理由で辞退している。2019年3月10日、名古屋ウィメンズマラソンを6時間10分15秒で完走。2021年2月15日、同期、同チーム、同学年の西満里奈と同日に卒業発表。3月末をもって卒業。2021年11月に、セントラルジャパンに所属することを発表したが、2023年4月に、SNSで対処していたことを発表。

SKE48へ

Twitter

タイトルとURLをコピーしました