【SKE48】後藤楽々が大学受験勉強のため休業

後藤楽々の総選挙不出馬と学業

 2018年3月23日、SKE48の後藤楽々が今年の総選挙への不出馬を表明した。

SKE48『報告+.゚(La*´∀`la)+.゚』
今日は大切な報告が皆さんにあります総選挙についてですが私は今年総選挙には立候補しません。なんで?って思いますよねいまから理由を書きたいと思います私は今年で高校…

 理由は学業との両立とのことだ。 

後藤楽々が大学受験のためSKE休業を発表

 後藤楽々は2018年4月29日、大学受験に集中するために一時的にSKE48からの休業を発表した。このニュースはファンや関係者を驚かせたと同時に、後藤の真剣な学業への取り組みと向上心を表している。

 後藤楽々は、同じSKE48のメンバーである須田亜香里によると、非常に高い評価を受けている名門校に通っているとのことである。実際、後に公開された卒業アルバムでは、彼女が南山女子高校の出身であることが明らかになった。さらに、2022年には、この学校からは国立医学部に約40人が合格していることが公表されている。これは、後藤の高い学業成績と能力を物語っている。

 彼女の公式プロフィールを見ると、その将来の夢はキャスターやリポーターとなることが明記されている。その目指す道のためには、有名な大学の学位が求められることも少なくない。彼女が大学進学を望んでいるのは、そのためではないだろうか。

SKE48 後藤楽々が英検準1級に合格!

 後藤楽々は英検準1級の資格を取得しており、その英語力は十分に早稲田大学や慶應義塾大学などの上位校でも問題なく通用するであろう。その学力だけでなく、彼女はゴルフの技術も持っている。ベストスコアは2017年8月時点で85とのことだ。

 また、AKB48の43rdシングル『君はメロディー』のSKEのカップリング曲『Gonna Jump』ではセンターポジションを務めている。

 現行のSKEチームE公演でもセンターポジションである。2017年の総選挙では46位だった。

 さらに、握手会での、おっさんを相手としたコミュニケーションスキルも持ち合わせている。これらの能力は、古文や漢文、社会の知識を暗記することで受験を乗り切った学生たちが持っているスキルよりも、実社会で彼女にとってより有益に働くであろう。

 そのようなバックグラウンドを持つ後藤楽々を、私大の教授方々は推薦入学の対象として考慮してみてはどうだろうか。彼女の資格や実績、英検準1級の取得、ゴルフの技術、握手会でのスキル、そしてSKE48での活躍等々を考慮すれば、彼女は十分に推薦入学の資格を持っていると言える。このような経歴を持つ彼女を支援することは、教育機関としても社会全体としても価値があると考えられる。この提案は、一人のアイドルがどのように自分のキャリアを形成し、それにどのように学業を組み合わせていくかという新たな視点を提供するものである。

私大文系に進学する意味は?

 また、今春、大学進学を発表した松本慈子についても書いた。

SKE48 松本慈子が大学生に

 現在の日本の支配的な価値観では、大学進学を志向するのはしかたないが、そもそも「文系の学問はだいたい本やネットで学べるので、文系大学の大半は不要ではないか」「ほとんど付加価値を生み出さない文系大学への進学を評価する世の中はいかがなものか」と疑問を提起した。

 たとえば、ホリエモンこと堀江貴文氏などは、常々、大学なんか要らないと主張している。

SKE界隈で飛び交う言説

 学業の進行と並行してのアイドル活動は、SKEでは一般的に行われておらず、そこでのSKEの休業という選択は確かに異例の措置であった。この運営からの対応に対しては、多くの人々からさまざまな解釈がなされ、あらゆる言説が飛び交っている。その一部には肯定的な見解もあれば否定的な意見も存在しており、SKE界隈に対する影響がどの程度かはまだ見極めるのが難しいと言えるだろう。

 具体的な事例として挙げられるのが、菅なな子(5期生)の場合である。彼女は『アイドル受験戦記』(文藝春秋)の著者としても知られている。2013年の時点ではまだ高校2年生であり、その12月には高校の出席日数が限界に達してしまうという状況に直面していた。それにより彼女は、SKEからの卒業という決断を下すことを余儀なくされた。その結果、菅なな子は旧帝国大学である名古屋大学経済学部に見事現役合格を果たし、SKEファンやその関係者を驚愕させたのである。しかしながら、彼女の場合には休業という選択肢が提示されることはなかったように見受けられる。

 さらに、私自身が見聞きした限りでは、社会は、一般的には、個々人が身につけたスキルや能力よりも、大学進学や卒業そのものを高く評価する傾向にあると感じている。特に、SKE運営ならぬ、日本の運営のあり方に対して疑問を投げかける意見がほとんど見受けられなかったことは、少し残念なことであると私は感じている。学業とアイドル活動の両立についてもっと広範に議論が行われ、それぞれの道を選ぶ若者たちに対して適切な支援が提供されるべきだと考えている。

追記:青山学院大学合格、SKE復帰、卒業、セントフォース所属

 2018年11月6日のチームE公演で復帰、推薦で大学に合格したことを発表した。そして2019年4月1日、青山学院大学英米文学科に進学することを発表した。
 ただ、関東の大学に進学した時点で、SKEとの両立が困難であることは、十分予想できた。
 2019年9月末をもって、SKEを卒業。10月から、セント・フォースに所属した。セント・フォースの先輩は柴田阿弥(元SKE4期生)だが、むしろ、大学の先輩である惣田紗莉渚(元SKEドラフト1期生)と仲良くしていたらしい。
 2021年6月には、日本テレビ『ズームイン!!サタデー』で6月度お天気キャスターを担当。「ダンシング天気予報」をしていた。
 2022年10月からは、日本テレビ『Oha!4 News Live』でカルチャーキャスターを担当している。

後藤楽々のSKE休業とプラグマティズム

 後藤楽々がアイドル活動を一時休業し、大学受験勉強に集中することは、彼女の将来の目標を実現するための実践的な選択だと言える。

 プラグマティズムは、知識や行動の価値を、その実用性によって判断する。後藤にとって、大学進学は単なる学歴の取得ではなく、キャスターやリポーターになるという夢の実現に必要な手段なのだ。特に、彼女が目指すメディア業界では、有名大学の学位が求められることが少なくない。したがって、大学受験への専念は、彼女の将来の可能性を広げるための戦略的な決断だと評価できる。

 また、プラグマティズムは、具体的な経験から得られる知識を重視する。後藤は名門の南山女子高校出身であり、高い学業成績を収めてきた。この経験は、彼女が大学受験に必要な学力と勉強習慣を身につけていることを示唆している。つまり、彼女にとって、受験勉強は未知の領域へのチャレンジではなく、これまでの経験を活かした現実的な取り組みなのである。

 さらに、プラグマティズムは、固定的な原則よりも、状況に応じた柔軟な対応を求める。アイドルとして活動しながら受験勉強を続けることは、時間的にも精神的にも大きな負担となる。後藤が一時的な休業を選択したのは、自分の置かれた状況を冷静に分析し、目標達成のために最適な方法を模索した結果だと言えよう。このような柔軟な判断力は、将来、変化の激しいメディア業界で活躍するためにも必要な資質だ。

 加えて、後藤の決断は、アイドルという枠に捉われず、自分の人生を主体的に選択する姿勢を示している。これは、一人一人が自由に自分の道を歩むことができる社会の理想に通じるものがある。また、彼女の行動は、アイドルを目指す少女たちに、学業とキャリアを両立させる新たな可能性を示すものでもある。

 ただし、プラグマティズムは、知識の絶対性を否定し、常に新しい可能性に開かれていることを求める。後藤の選択は、現時点では最善のものだと評価できるが、状況の変化に応じて、柔軟に方針を変更していく必要もあるだろう。大学進学後も、彼女には、アイドルとしてのキャリアと学業・将来の夢とのバランスを模索し続けることが求められる。

 以上のように、後藤楽々の決断は、自身の将来の可能性を広げるための実践的な選択であり、状況に応じた柔軟な判断力の表れだと言える。また、それは、個人の自由な生き方を尊重する民主的な社会の理想にも通じるものがある。後藤の挑戦は、アイドルという枠を越えて、自分の人生を主体的に切り拓いていく一つのモデルケースとなるだろう。ただし、彼女には、状況の変化に応じて柔軟に方針を調整し、アイドルとしてのキャリアと学業・将来の夢とのバランスを探り続けることが求められる。

後藤楽々のSKE休業とハイデガー

 人間は「世界内存在」として、常にすでに何らかの意味連関の中に組み込まれている。私たちは、自らが投げ込まれた状況の中で、自分自身の可能性を引き受けながら生きているのだ。後藤楽々もまた、アイドルとしての活動と、大学受験生としての勉強という、二つの意味連関の中で生きている。

 彼女が大学受験のために休業を決断したことは、自らの将来の可能性を真摯に見つめた結果だと言えるだろう。キャスターやリポーターになるという夢の実現のために、大学の学位が求められるというのは、彼女が投げ込まれた世界の現実なのだ。ハイデガーのいう「被投性」とは、まさにこのような状況を指している。

 しかし、ここで重要なのは、後藤楽々が自らの意思で、この現実に向き合おうとしていることだ。彼女は、受動的に状況に流されるのではなく、自分自身の将来を見据えて決断を下した。これは、ハイデガーが重視した「本来的な自己」の在り方に通じるものがある。

 ハイデガーは、私たちが日常的に「Das Man(世人)」の価値観に支配され、本来的な自己を見失って生きていると指摘した。アイドルの世界もまた、このような世人の論理に基づく規範に支配されがちだ。ファンの期待に応えることが最優先され、自分自身の人生の意味を問うことは後回しにされてしまう。

 しかし、後藤楽々は、このような世人の圧力に抗して、自らの存在の意味を問い直そうとしているのだ。大学受験のための休業は、彼女にとって、アイドルとしての在り方を根本的に問い直す契機となるはずだ。それは、単なる学業の問題ではなく、自分自身の人生をどのように生きるのかという、存在論的な問いなのだ。

 もちろん、これは容易な道のりではない。アイドルとしての活動を休止することは、ファンとの絆を一時的に断つことでもある。それは、彼女にとって大きな決断だったはずだ。しかし、ハイデガーが説くように、本来的な自己を取り戻すためには、時として勇気ある決断が必要なのだ。

 また、後藤楽々の決断は、アイドルという存在の意味についても問いを投げかけている。アイドルは、ファンを楽しませ、癒すことを使命としている。しかし、それは同時に、アイドル自身の人生の犠牲の上に成り立っているのではないだろうか。彼女の休業は、このような矛盾を浮き彫りにしているのだ。

 ハイデガーは、「存在の真理」を追求することが、人間の本来的な在り方だと説いた。後藤楽々の決断もまた、自らの存在の真理を探求する旅の一歩だと言えるだろう。彼女は、アイドルという役割に埋没するのではなく、一人の人間として、自分自身の人生の意味を問おうとしているのだ。

 これは、彼女個人の問題にとどまらない。現代社会において、私たちは様々な役割を演じることを求められる。しかし、そのことに疑問を抱くことなく、ただ盲目的に従っているのではないだろうか。後藤楽々の決断は、このような事態に一石を投じるものなのだ。

 彼女の休業は、一時的なものかもしれない。しかし、その間に得られる経験と洞察は、彼女の人生を大きく変えるはずだ。そしてそれは、単に彼女個人の問題ではなく、アイドル文化、ひいては現代社会の在り方を問い直す契機となるかもしれない。

 ハイデガーが説くように、本来的な自己を取り戻すことは、容易ではない。しかし、後藤楽々の決断は、その困難な道に一歩を踏み出す勇気を示しているのだ。彼女の歩みが、多くの人々に、自らの存在の意味を問い直すことの大切さを伝えてくれることを願ってやまない。

後藤楽々のSKE休業とデリダ

 まず、「大学受験」という言説は、一種の「ロゴス中心主義」を体現している。デリダは、西洋の思想が「ロゴス(言葉・理性)」を中心に構築されてきたことを批判した。大学受験は、知識の獲得と理性の陶冶を最高の価値とする教育観に基づいている。後藤がアイドル活動を休業してまで大学受験に専念するという決断は、この教育観を反復し、強化するものだと言える。

 しかし同時に、この決断は「アイドル」という言説が持つ価値観とは対立している。アイドルは、「純粋さ」や「一生懸命さ」といった感情的価値を体現することを求められる。知識や学歴よりも、ファンへの奉仕や感動の提供が重視される。後藤の休業は、こうしたアイドルの言説的規範からの逸脱を意味する。ここには、二つの異なる言説の間の緊張関係が表れている。

 ただし、後藤の目指すキャスターやリポーターという職業は、この二つの言説を接続する可能性を示唆している。これらの職業は、知的な洞察力とコミュニケーション能力を必要とすると同時に、一定の「感動」を提供することも求められる。後藤の選択は、「大学」と「アイドル」という二項対立を脱構築し、新たな主体の在り方を切り拓く試みとして読み取ることもできるだろう。

 また、後藤の出身高校の情報は、彼女の主体性が言説によって構築される過程を示す興味深い例となっている。「南山女子高校出身」というレッテルは、彼女に「高い学力」というイメージを付与する。しかし、デリダが指摘するように、こうしたイメージは言説の反復によって構築されるものであり、決して本質的なものではない。むしろ、この情報の流布それ自体が、後藤という主体を特定の言説に従属させる効果を持っているのだ。

 重要なのは、こうした言説の力学を脱構築し、そこに働く権力関係を明らかにすることだ。「大学受験」や「アイドル」という言説に佇みつつ、それらが主体を構築するメカニズムを解き明かすこと。そうした脱構築の実践を通して、私たちは教育とポピュラー・カルチャーの関係性を問い直し、新たな可能性を模索することができる。

 後藤楽々の大学受験勉強のためのアイドル活動休業は、現代社会における主体形成の複雑さを浮き彫りにする出来事だ。そこには、異なる言説の緊張関係と、言説によって主体が構築される過程が示されている。後藤の決断に佇みつつ、そこに働く言説の力学を解き放つこと。それこそが、デリダの思想がこの出来事に投げかける問いなのかもしれない。私たちに求められるのは、既存の言説を無批判に受け入れるのではなく、絶えずその権力性を問い直し、新たな主体の可能性を探究していくことなのだ。

後藤楽々のSKE休業とメイヤスー

 まず、相関主義の観点から見ると、後藤のアイドル活動と大学受験勉強は、互いに相関関係にあるように見える。アイドルとしての活動が、大学受験勉強を妨げているという考え方は、思考と存在の相関性を前提としている。しかし、この両者は本質的に分離されているはずだ。後藤の思考や意志とは独立に、アイドル活動と大学受験勉強という二つの存在は、偶然的に同時に存在しているに過ぎない。

 次に、偶然性の絶対化という観点から見ると、後藤の選択は必然的なものではなく、あくまで偶然の産物であると言える。彼女がアイドル活動を休業し、大学受験勉強に専念することは、何らかの法則性によって決定されたわけではない。むしろ、その選択自体が偶然性そのものであり、他の可能性も同時に存在していたはずだ。たとえば、彼女はアイドル活動を続けながら、大学受験勉強にも取り組むことができたかもしれない。あるいは、大学進学を断念することもできたかもしれない。これらの可能性は、全て偶然性の中に含まれている。

 さらに、数学的存在論の観点からすると、後藤の選択は数学的な対象として捉えることができるだろう。アイドル活動と大学受験勉強という二つの選択肢は、数学的な集合として表現できる。そして、彼女がその中からどちらかを選ぶという行為は、数学的な関数として記述できる。この数学的な対象は、後藤の思考とは独立に存在しており、その絶対性を示している。

 また、化石論の観点からすると、後藤の選択は人間の思考以前に存在していた事象と関連づけることができる。たとえば、過去のアイドルの中には、学業とアイドル活動を両立させた人もいれば、学業を優先させた人もいる。これらの事例は、後藤の選択に先立って存在していたわけであり、その意味で化石のようなものと言える。後藤の選択は、これらの過去の事例と無関係ではありえない。

 最後に、思弁的実在論の観点から見ると、後藤の選択は思考とは独立した実在の一部であると言える。彼女の選択は、彼女自身の思考によって生み出されたものではなく、むしろ実在そのものの現れなのだ。そして、その実在は絶対的なものであり、人間の思考によって左右されるものではない。後藤の選択は、そうした実在の本性を露呈させる一つの事例なのである。

 以上のように、後藤楽々のアイドル活動休業という出来事は、様々な観点から考察することができる。相関主義批判、偶然性の絶対化、数学的存在論、化石論、思弁的実在論などの概念を適用することで、この出来事の意味合いを深く掘り下げることが可能となる。そして、そこから見えてくるのは、人間の思考とは独立した実在の姿であり、その偶然性と絶対性である。後藤の選択は、そうした実在の一断面を示していると言えるだろう。

後藤楽々のSKE休業とハーマン

 まず、オブジェクト指向存在論の観点から見ると、後藤楽々という存在者(オブジェクト)は、アイドルという役割を担う存在者であると同時に、受験生という別の存在者でもあるということができる。これらの異なる存在者は、互いに影響を与え合いながら、後藤楽々という存在者を形作っている。アイドル活動と受験勉強という二つの存在者は、一見相反するように見えるが、実際には vicarious causation(代理的因果関係)を通じて、間接的に影響を与え合っているのだ。

 次に、withdrawn(撤退)の概念から考えてみると、後藤楽々という存在者の本質は、アイドルとしての活動や受験勉強だけでは捉えきれない。彼女の内面や、他の人々との関係性など、私たちがアクセスできない部分が常に存在しているのである。アイドル活動の休業は、彼女の本質の一部が表面化した結果であると解釈できる。

 また、四つの因果関係の観点から見ると、後藤楽々のアイドル活動休業には、質料因(彼女の能力や適性)、形相因(アイドルや受験生としての役割)、始動因(大学進学への意欲)、目的因(キャスターやリポーターになるという夢)が複雑に絡み合っていると言える。これらの因果関係が、後藤楽々という存在者の在り方を規定しているのだ。

 さらに、非相関主義の立場から考えると、後藤楽々の決断は、私たち観察者の意識とは独立して存在している。彼女のアイドル活動休業は、私たちがどのように解釈するかに関わらず、それ自体で意味を持つ出来事なのである。

 最後に、地球外知性体との関係について考えてみよう。もし地球外の知的生命体が存在するとしたら、彼らにとって後藤楽々のアイドル活動休業はどのように映るだろうか。人間社会特有の価値観や文脈を超えて、この出来事を理解することは可能だろうか。この問いは、私たちの認識の限界を示唆すると同時に、異なる存在者との対話の可能性を示唆しているのかもしれない。

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