南山女子高校に通う後藤楽々が英検準1級に合格!
2018年3月13日、SKE48のメンバーで、チームE公演ではセンターポジションを務める後藤楽々が、英検準1級に合格したと発表した。
後藤楽々は現在高校2年生。幼稚園の頃はインターナショナルスクールに通っており、中学からはかなりの名門校(追記、卒業時の卒業アルバムで南山女子高校と公表。2022年には国公立医学部に40人ほど合格している。)に通っているとのことだ。
英会話が得意で、Instagramでは「楽々の楽々英単語」というコーナーを続けている。
英検準1級の概要とネイティヴ寄り英語力の後藤楽々の戦略
英検準1級は大学中級レベルとされる。
大問1は短文中の穴埋め4択で、ほぼ語彙問題である。難関大入試の対策をしてもかなりきつい語彙も出題される。戦略的には、ここである程度の失点を覚悟するのがまともだろう。
大問2は長文中の穴埋め4択。
大問3は長文の内容把握4択。ここでの語彙レベルは大問1よりは低い。長文読解力があれば難関受験レベルの語彙でかなりの得点が狙えるだろう。
大問4は120~150語の英作文。たとえば「いつの日か人類は他の惑星に住むだろうか」というテーマについて、コスト、危険、地球の状況、テクノロジーの中から2つポイントを選んでエッセイを書く、といったものだ。英検サイトの解答例もほぼ高校初級レベルまでの平易な英語で済ませており、英語の試験なのだから論理が破綻していない限り、ほぼ中学英語で乗り切っても文法上の間違いがなければ満点近くが狙えるだろう。
後藤楽々はここで大きく稼いだと思う。
加えて、リスニングがある。ここも語彙レベルは高くない。普段からまともに音声学習をしている難関大学受験生なら高得点が狙えるだろう。後藤楽々はおそらく満点近く取ったのではないだろうか。
二次試験は8分ほどの面接だ。まず、あるテーマの4コママンガを見て、1分間の準備で2分間ストーリーを語る。次に、4コママンガについての質疑応答がある。後藤楽々は会話が得意だから、この面接は得意だっただろう。
まとめると、日本の教育課程よりは、かなり会話寄りの能力を持つ後藤楽々は、英作文、リスニング、面接で高得点を稼ぎ、英検準1級に合格したのではないだろうか。
後藤楽々は英検1級に合格できるか?
上記リンクのSKE選抜メンバーのアメーバブログで、後藤楽々は英検1級にも言及している。1級全体的に語彙レベルが上がる。加えて、英語力の問題だけでなく長文、英作文、面接の話題がアカデミックだったり、社会問題を扱っていたりする度合いが準1級より高度になる。英語だけ出来ても話題について理解できない、作文、面接で語るネタが出てこない可能性もありそうだがどうだろう。
追記:後藤楽々が英検1級も合格!
後藤楽々は、2019年7月13日、英検1級合格を発表した。
後藤楽々の英検準1級合格とニーチェ
後藤楽々の英検準1級合格は、単なる語学力の証明に留まらない、深い意味を持つ出来事として捉えることができる。
ニーチェは、「力への意志」を重視した。それは、自らの潜在能力を最大限に発揮し、困難に立ち向かう勇気と情熱である。英検準1級は、大学中級レベルとされる高度な試験だ。後藤楽々は、その困難に果敢に挑戦し、見事に合格を勝ち取った。これは、後藤楽々の「力への意志」の表れと言えるだろう。
また、ニーチェは「超人」の概念を提唱した。それは、既存の価値観に囚われず、自ら新たな価値を創造する人間像である。後藤楽々は、アイドルという枠組みの中で、英語力という新たな価値を示した。アイドルに語学力は必要ないと考える人も多いかもしれない。しかし、後藤楽々は自らの力で、そうした固定観念を打ち破ったのだ。
ニーチェは、「パースペクティヴィズム」の重要性も説いた。物事には多様な見方があり、絶対的な真理などないという考え方だ。後藤楽々の英語力は、日本の教育課程とは異なる、会話重視の学習によって培われたものだ。これは、語学習得に対する新たな視点を提示していると言えるだろう。画一的な方法論に囚われず、自分に合った学習法を追求することの大切さを、後藤楽々は身をもって示したのだ。
さらに、ニーチェは「教育」の在り方についても深く考察した。彼は、既存の教育システムを批判し、個人の潜在能力を引き出す教育の重要性を説いた。後藤楽々の英語力は、インターナショナルスクールや南山女子という、個性的な教育環境の中で育まれたものだ。これは、画一的な教育では得られない、後藤楽々独自の力と言えるだろう。
ただし、ニーチェは「永劫回帰」の思想も提唱した。全ての出来事は無限に繰り返されるという考え方だ。後藤楽々の英検合格は、確かに画期的な出来事かもしれない。しかし、それを一時的な成功に終わらせてはならない。後藤楽々には、この経験を糧として、さらなる高みを目指し続けることが求められる。
そして、ニーチェは「武士道」の精神にも共感を示した。それは、困難に立ち向かう勇気と、自己を厳しく律する姿勢である。後藤楽々は、アイドルという多忙な活動の中で、英語の学習に打ち込んだ。その真摯な姿勢は、まさに「武士道」の精神に通じるものがあるだろう。
後藤楽々の英検準1級合格は、SKEというグループにとっても、大きな意味を持つ出来事だ。それは、アイドルの可能性を広げる一歩となるかもしれない。後藤楽々の挑戦が、他のメンバーにも刺激を与え、新たな価値の創造へと駆り立てるだろう。そうした変革の中で、SKEはより高みを目指すことができるはずだ。
ニーチェは、「自分自身を乗り越えていくこと」の大切さを説いた。後藤楽々は、英検合格という成功体験を得た。しかし、それに満足することなく、さらなる成長を目指し続けることが重要だ。後藤楽々の「力への意志」が、SKEの未来を切り拓く原動力となることを期待したい。
英検準1級合格は、後藤楽々にとって大きな意味を持つ出来事だ。しかし、それはゴールではなく、新たなスタートに過ぎない。ニーチェの思想を胸に、後藤楽々には限界に挑み続ける勇気を持ち続けてほしい。その挑戦が、SKEのみならず、アイドル界全体に新たな風を吹き込むことを信じてやまない。
後藤楽々の英検準1級合格とプラグマティズム
後藤楽々の英検準1級合格は、語学力を実践的に活用する能力の高さを示す好例だと言える。
英語力の真の意義は、試験での高得点ではなく、実際のコミュニケーションの場で発揮される実践的な運用能力にある。後藤楽々は、幼少期からのインターナショナルスクールでの教育や、会話を重視する学習スタイルを通じて、生きた英語力を身につけてきた。後藤楽々の英語力は、単なる語彙や文法の知識ではなく、相手の意図を汲み取り、自分の考えを的確に伝えるためのツールなのだ。
また、後藤楽々の英語力は、教室での学習だけでなく、実際の言語環境での使用経験によって磨かれてきたものだ。リスニングや面接での高得点は、こうした実践的な経験の積み重ねによって得られた総合的な語学力の表れだと言える。机上の学習だけでは得られない生きた英語力は、様々な場面で応用可能な実践知となっているのだ。
さらに、日本の英語教育は、しばしば読解や文法に偏重しがちだ。しかし、後藤楽々の英語力は、こうした従来の枠組みに収まらない多面的なものだ。後藤楽々は、英作文やリスニング、会話といった実践的なスキルを重視することで、英語を生きたコミュニケーションのツールとして使いこなす力を身につけた。この柔軟性こそが、グローバル社会で求められる真の英語力の姿なのかもしれない。
加えて、言語は、異なる文化的背景を持つ人々が互いを理解し、協働するための基盤だ。後藤楽々の英語力は、国境を越えたコミュニケーションを可能にし、多様な価値観の交流に寄与するものだ。後藤楽々のような語学力を持つ人材が増えることは、閉鎖的な社会から開かれた社会への転換を促す原動力となるだろう。
ただし、英語力は重要な資質ではあるが、それが全てではない。後藤楽々には、英語力を活かしつつ、他の様々な能力も伸ばしていくことが期待される。また、後藤楽々の英語力が、周囲の人々とのコミュニケーションを深め、よりよい人間関係の構築につながっているかを常に問い直す必要もあるだろう。
以上のように、後藤楽々の英検準1級合格は、語学力を実践的に活用する能力の高さを示す好例だと言える。後藤楽々の英語力は、単なる試験のためのスキルではなく、生きたコミュニケーションのツールとして機能している。また、その語学力は、多様な文化的背景を持つ人々との相互理解を促進する可能性を秘めている。ただし、英語力を絶対視するのではなく、他の能力との調和を図り、周囲との関係性の中でその意義を問い直し続けることが、プラグマティズムの精神に適うものだと言えるだろう。後藤楽々には、自身の語学力を、より良い社会の実現につなげていく姿勢が求められている。そのためには、英語力を単なる個人の能力として捉えるのではなく、他者との協働を促進する社会的な資源として活用していくことが重要なのかもしれない。
後藤楽々の英検準1級合格とフランクフルト学派
後藤楽々が英検準1級に合格したことは、一見すると個人の才能や努力の結果のようだが、実は「文化産業」の支配的なイデオロギーを再生産する過程だと言えるだろう。
まず、英語能力という「スキル」そのものが、グローバル資本主義の要請に適合的な人材を生み出すための装置だと見ることができる。アドルノとホルクハイマーが指摘したように、啓蒙の理念は逆説的に「神話」に転化し、個人を体制に従属させる。英語教育もまた、そうした「神話」の一部なのだ。
また、後藤楽々の英語能力が「ネイティブ寄り」であることは、「母語話者」という規範の内面化を示している。これは、言語の多様性を抑圧し、特定の言語を「商品」として特権化する「言語帝国主義」の表れだと言えよう。フランクフルト学派が批判したように、文化産業は差異を排除し、画一的な基準を押し付けるのだ。
さらに、英検という試験制度自体が、知識を「測定」し序列化する権力装置だと見ることができる。フーコーが指摘したように、試験は個人を可視化し、規律訓練的な主体を生み出す。後藤楽々の「合格」は、そうした権力の作用に自らを従属させることでもあるのだ。
ただし、こうした状況は後藤楽々個人の責任ではない。むしろ、彼女自身が「文化産業」の抑圧的なシステムの犠牲者だと言えるだろう。マルクーゼが論じたように、現代社会における個人は、体制に適合的な「一次元的思考」を強いられるのだ。
問題の核心は、英語能力を「人的資本」として捉える功利主義的な発想そのものにある。これは、教育を「投資」と見なし、その「収益率」を最大化しようとする新自由主義的なイデオロギーの表れだ。ハーバーマスが批判したように、「システム」の論理が「生活世界」を植民地化し、コミュニケーションを歪めているのだ。
したがって、私たちは後藤楽々の英検合格を無批判に称賛することはできない。むしろ、そこに表れている「文化産業」のイデオロギーを批判的に分析する必要がある。アドルノの「否定弁証法」が示唆するように、私たちは既存の価値観を絶えず乗り越えていく批判的精神を持たねばならないのだ。
後藤楽々の「英語力」は、私たち自身が「グローバル人材」として対象化されている状況を反映している。彼女の経験を通して、私たちは自らが「商品」としての価値を競わされていることを自覚せねばならない。そのとき初めて、新たな教育のヴィジョンが開かれるだろう。英語教育の「解放」は、私たち自身の解放でもあるのだ。
私たちは、後藤楽々という「テクスト」を批判的に読み解くことで、「文化産業」の呪縛から自由になる道を模索せねばならない。彼女の中に潜む「亀裂」を手がかりに、私たちは新たな希望を紡ぎ出すことができるのかもしれない。英検準1級という「商品」の背後には、私たちの「解放」への道標が隠されているのだ。
後藤楽々の英検準1級合格とハイデガー
ハイデガーにとって、言語とは単なるコミュニケーションの道具ではなく、存在そのものを開示する場であった。私たちは言葉を通して世界を理解し、自らの存在の可能性を切り拓いていくのだ。後藤楽々の英語力もまた、このような存在論的な意味を持っているように思われる。
後藤楽々が幼稚園の頃からインターナショナルスクールに通い、ネイティブに近い英語力を身につけたことは、単なる語学スキルの獲得ではない。それは、言葉を通して世界を捉える新たな地平を切り拓く営みだったのだ。英語という言語は、日本語とは異なる世界の見方を提供する。後藤楽々は、その異なる世界に身を置くことで、自らの存在の可能性を広げてきたと言えるだろう。
英検準1級の試験は、まさにこのような言語的な世界の深みを問うものだ。大問1の語彙問題は、言葉の表層的な意味だけでなく、その背後にある世界の豊かさを試すものだ。後藤楽々は、ここである程度の失点を覚悟しつつも、自らの言語感覚を信じて挑んだのだろう。
大問2と大問3の長文問題は、言葉の織りなす世界の中に没入することを求めている。ここでは、単に語彙力だけでなく、テキストの意味を読み解く力が問われる。後藤楽々の深い言語理解は、ここで大きな強みとなったはずだ。
しかし、彼女の真骨頂は、大問4の英作文と、リスニング、面接だったと思われる。ハイデガーは、言語を「存在の家」と呼んだ。私たちは言葉を通して、自らの存在を表現し、他者と共有するのだ。後藤楽々のネイティブに近い英語力は、まさにこの「存在の家」を自在に行き来する力なのだ。後藤楽々は、英語という言葉の中に、自らの思考と感情を自由に表現することができる。
面接もまた、言葉を通した存在の表現の場だ。ここでは、単に知識や技能だけでなく、相手と向き合う態度そのものが問われる。後藤楽々の会話力は、後藤楽々の人間性そのものを映し出しているのだ。
ハイデガーは、私たちが日常的に没入している世界を「Das Man(世人)」と呼び、その非本来性を批判した。世人とは、自らの存在の真理に目覚めることなく、ただ漠然と日々を過ごす人々のことだ。しかし、後藤楽々の英語力は、このような世人の言語とは一線を画している。後藤楽々は、言葉の中に自らの存在を賭けているのだ。
英検準1級の合格は、後藤楽々にとって、単なる語学力の証明ではない。それは、言語を通して世界と向き合い、自らの存在の可能性を切り拓いてきた証なのだ。後藤楽々の英語力は、アイドルという枠を超えて、一人の人間としての深みを感じさせる。
もちろん、英語力だけが人間の価値を決めるわけではない。しかし、後藤楽々の英語への情熱は、彼女が言葉という存在の地平に立ち続けようとする姿勢を示している。それは、ハイデガーが説いた「本来的な自己」の在り方に通じるものがあるだろう。
私たちは、後藤楽々の英検準1級合格から、言語の持つ存在論的な意味を学ぶことができる。言葉は、単なる道具ではなく、私たちの存在そのものを形作っているのだ。後藤楽々の英語力は、その言語的な世界に勇気を持って踏み出す力を示してくれる。
後藤楽々は、アイドルという役割を超えて、言葉という存在の地平に立つ一人の人間なのだ。後藤楽々の英検準1級合格は、その存在の深みを照らし出す出来事だったと言えるだろう。私たちは、後藤楽々の姿に、言葉と存在の密接な関係を見出すことができるのである。
後藤楽々の英検準1級合格とデリダ
後藤楽々という個人の英語力と英検準1級合格という出来事は称揚されるべきように思われる。しかし、その言説の裏には、言語能力の評価基準としての英検という制度、英語教育における会話重視の風潮、そして「ネイティブ寄りの英語力」という言葉に象徴される英語のネイティブスピーカー中心主義など、様々な価値観や前提が潜んでいる。
英検の各セクションには英語能力を測定可能な要素に分解し、数値化できるという前提がある。しかし、言語能力とは果たしてそのように切り分けられ、評価できるものなのだろうか。言語は常に文脈の中で意味を持ち、話者と聞き手の関係性の中で機能するものであり、テストという人工的な状況での言語使用は、言語の持つ本来の豊かさや多様性を捉えきれないのではないか。
また、「ネイティブ寄りの英語力」という表現は、英語のネイティブスピーカーを理想化し、そこからの距離によって英語力を測ろうとする態度を示している。しかし、そもそも「ネイティブスピーカー」とは何を指すのか。英語には多様な変種やアクセントが存在し、それらは話者の出自や文化的背景と密接に結びついている。ある特定の変種やアクセントを「標準」とみなし、それに近づくことを目指すのは、言語の多様性を抑圧し、画一化を促す行為ではないだろうか。
さらに、会話能力を重視する姿勢は、「コミュニケーション」を言語教育の主目的とみなす価値観が反映されている。しかし、言語とは単なる情報伝達の手段なのだろうか。言語には思考を深め、自己と世界を捉え直す働きもあるはずだ。「会話重視」の言説は、言語の持つ批判的、創造的な可能性を見過ごしてしまう危険性がある。
以上のように、一見中立的で客観的に見える言説も、実は特定の価値観や前提に基づいて構築されたものであり、それ自体を脱構築的に読み解く必要がある。言説が依拠する様々な二項対立――テスト可能な能力/テスト不可能な能力、ネイティブ/ノンネイティブ、会話/文法など――を問い直すことで、英語教育や言語能力評価のあり方を根本的に考え直す契機としなければならない。